5月21日 主の昇天
黙想のヒント

「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(使徒言行録1:9)

 イエスは宣教活動の間弟子たちと共におられましたが、死と復活を通して決定的に御父のもとに帰られました。イエスは今永遠という姿で生きておられます。永遠という概念は時間の長さを言うのではありません。それは時間と空間を超えるという意味です。しかし私たちはこの時間と空間という制約の中でものごとを考え生活しています。

 あの発明王トーマス・エジソンは時間の概念に縛られない人でした。彼の工場には長針も短針もない大きな時計が掛けられていました。ある日、訪ねてきた友人の自動車王フォードがその時計を見て、時計には針がなければ意味がないのではないかと言うと、彼は時間というものは自分でコントロールすべきものであって、時計のような出来合いのバロメーターに左右されては何もできないと答えたのでした。私たちは時間という概念の中で生活していますが、彼に言わせれば1日が24時間であるというのは人間が人工的に考えたもので、自分が時間の主人公になればいいのだ。そうすれば1日を36時間でも48時間でも自由に使えるのだと言ったのでした。そのため彼は「若者よ、時計を見るな」とよく言いました。

 私はこのエジソンの考えをよく参考にします。私たちは時間の概念の中で生活し、時間を見ながら予定を立てますが、自分が時間の奴隷になっていることには気づいていません。そのため「忙しい」をある種のステータスにしています。自分がいかに有能な人間であるかを示すためステータスが、自分は非常に忙しい人間であるという表現です。しかし「忙しいは怠け者の常套句である。今日なすべきことを今日しなかったら、明日は必ず忙しいのである。」(徳富蘇峰)

 今日すべきことをして、より良く生きることが時間の概念を超え、1日を36時間にも48時間にも72時間にも生きることができるのです。だから寿命の長短は関係ないのです。大切なのは、いかに濃厚な充実した人生を送るかです。イエスは33歳という短命で生涯を終えました。しかも宣教活動は3年間だけでした。その短い生涯は、彼が目に見えない姿となった後にこそ弟子たちを支え、時間と空間を超えて今も教会を支え続けているのです。「神の前では一日は千年、千年は一日である」(Ⅱペトロ3:8)

 個人的にも、家庭でも、そして教会でも社会でも豊かな未来を創るという信念は、豊かな今を創るという信念がない限り、あまり意味がないのです。今日こそが常に私たちの最良の日であるべきなのです。このことを禅は「日々是好日」、仏教では「一日一生」と教えています。人生とは今日一日一日のことで、確信をもって人生だと言える唯一のものです。ですから、今ここで克服できない時間は永久に克服できない。今ここで楽しめない人生は永久に楽しめない。今ここで賢明な生活を送らなければ、永久に賢明な生活は送れないのです。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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