6月4日 三位一体の主日
黙想のヒント

「兄弟たち、喜びなさい。」(Ⅱコリント13:11)

 皆さんは、このパウロの言葉を読んで、あるいは耳にしたとき、どんな印象をお受けになりますか。確かに喜びは信仰生活の中心となる大切な言葉です。しかし今様々な困難に直面している人の中には、こんな大変な時に喜びなさいと簡単に言わないでほしい、と反論したくなる人もいることでしょう。

 それは私たちがこの喜びという言葉にある種の固定観念をもっているからです。例えば、子どものような無邪気さ、純真な笑顔、笑いなどの感情的な表現です。それでは、パウロはいつも無邪気に笑って暮らしていたのでしょうか。そうではありません。この「喜び」という言葉はパウロに非常に特徴的な言葉で、彼のすべての手紙に見られる、筆頭に挙げられるべき彼の姿勢です。「私は慰めに満たされており、どんな苦難の内にあっても喜びに満ちあふれています。」(Ⅱコリント7:4)だからと言って、パウロはいつも楽天的、呑気だったわけではなく、他の誰よりも多くの困難を経験したからこそ、それを克服したときの喜びは誰よりも大きかったのです。そのパウロの書簡における彼の苦しみを挙げたらきりがないくらいです。

 それでは、この困難を乗り越える、克服するとはどういうことでしょうか。何か強い闘争心をもって困難を撃退することでしょうか。そうではなく、困難を乗り越える一つの大きな道は、そこに意味を見出すということです。例えばパウロはキリストや教会のために「苦しむことを喜びとする」(コロサイ1:24)と言い、また「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1:29)とも言いました。決してパウロは迫害され虐げられてニコニコしていたわけではなく、彼はキリストや教会、人々のために苦しむことに大きな意味を見出していたのです。それを喜びと表現したのです。

 「主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(Ⅰコリント1:58)だからキリストのため、人々のために辛さをささげることが肥料となって教会という土壌を豊にし、そこから大きな信仰の収穫がもたらされるのです。このことはキリスト者でない一般の人の中にも、辛くても人のためなら頑張れる、人の幸せのためなら必死になれる人は多くいます。人のため、人の幸せのため、それがモチベーションとなってその人の生きがいとなり、喜びとなるのです。

 そこから私は、「信仰とは人生に意味があることを知ることだ」と定義します。この辛さを通して神は私に何を教えようとしているのか、などと辛さや苦しみに積極的な意味を見出せば、それまで下を向いていた顔も上がり、表情も明るくなって、おのずと笑顔も出てきます。これが本当の喜びです。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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