6月18日 年間第11主日
黙想のヒント

「イエスは十二人を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」(マタイ10:1)

 福音書が十二使徒を列挙するとき、まず筆頭に挙げられるのが必ずペトロであり、最後に挙げられるのは必ずイスカリオテのユダです。ペトロは使徒の頭で、イエスの宣教活動の最も重要な場面に必ず登場し、感情的で涙もろく、十二使徒を代表して何かイエスに語るのもペトロであり、また十二使徒の中で復活したイエスが最初に現れたのもペトロです。

 他方で福音書は、イスカリオテのユダのことを「イエスを裏切った」と表現していますが、実際ユダのことは神秘です。全知全能の神であるイエスは、なぜユダを使徒として選んだのでしょうか。イエスはユダがご自身を裏切ることを知っていたのでしょうか。しかし神は善であっても悪であっても予定はしない。神は英知をもって人間を導く。これが神と人間の救いの約束です。イエスが十二使徒を選んだことは、彼らに人間を代表して自由意思という大きな責任を与えたことなのです。

 ユダはイエスに一般民衆と同じような政治的な救済者を期待していたのでしょう。しかし彼にとってイエスは自分が期待していたような人物ではなかった。その失望からイエスを懲らしめようと思ったのでしょう。そのため銀貨30枚で売り渡したのですが、よもやイエスに死刑の判決が下るとは思わなかった。彼は自らの行動を後悔し、銀貨を返しに行ったが祭司長たちから相手にされず悲しい結末になってしまった。(マタイ27:3~5参照)つまり彼は自分のせいでこうなってしまったと、自分で全ての責任を背負い込んでしまったのです。裏切ったのならペトロを始め、他の弟子たちもそうでした。もしかしたら、ユダは他の使徒たちより心が純粋であったのかも知れません。あのイエスの受難の夜、もしペトロが一緒に逃げようと言って、ユダの手を引いてくれたらユダは裏切り者と言われることはなかったでしょう。誰でも生涯に一度は魔が差して大きな過ちに陥ることはあるでしょう。もしそれが赦されなかったら、それはキリスト教ではありません。ユダは、「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(マタイ27:4)と言って自らの過ちを認めました。このユダが永遠に「裏切り者」と言われることに私は納得できません。十字架上で亡くなったイエスはまずユダの魂を訪れ、泣きながら「ユダよ、私はお前のためにも命をささげたのだよ」と言ってユダの魂を救ったと私は信じています。

 十二使徒を描いた代表的な絵画はレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」です。彼はこの絵画の制作にあたり、イエスのモデルとしてピエトリ・バンディネッリという魅力的な青年を選びました。絵の完成には数年を要し、最後にユダのモデルとなる人を探して、レオナルドは町の酒場やいかがわしい場所を探し回りました。彼はついに画家特有の洞察で一人の人物に出会いました。退廃的でいかにも放蕩が顔ににじみ出たその表情はユダのモデルとして最適でした。絵を描き始めて間もなく、レオナルドはその顔にどこか見覚えがあるような気がしたので、どこかで会ったことがあるかと尋ねました。彼は答えました。「ええ、会いましたよ。もう何年も前にキリストのモデルをしたことがあります。でも、あれからいろんなことがありました。」彼は自らをバンディネッリと名乗りました。

 ペトロとユダ。「大聖人」と排斥された者。その逆もまた真実です。「昨日のユダ」が「今日のキリスト」にもなり得るのです。つまり聖人と言われる人は、もともと憐れな存在で、キリストに救われてこそ聖とされるのですから。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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