7月9日 年間第14主日
黙想のヒント

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ11:25)

 イエスが言う知恵ある者や賢い者とは、どんな人のことを言うのでしょうか。それは当時の権力者や律法学者のように、知らないのに知っているふりをして自分には知恵ある、あるいは賢いと思い込んでいる人のことです。自分が賢いと思い込んでいる人の愚かさは、単純なものをあえて複雑にしてしまうことです。律法学者やファリサイ派は単純な神の愛を、複雑な人間の掟に変えてしまいました。そのため彼らはしばしばイエスに議論を仕掛け、戦いを挑んできました。

 しかし福音書全体を通して理解されることですが、イエスは誠実に問いかける人には誠実に答えますが、イエスを陥れようとしたり、罠にかけようとする質問には正面から答えることはせず、質問を変えたり、場合によったら無視したこともありました。イエスはスポーツ選手のように、どんな議論に対しても真っ向勝負するようなことはしないのです。というのは、真の人間性を見る目をもっていたイエスは、その人が持つ答えよりも、その人が何を問題とし、何に関心があるかを見ているのです。

 ここに真の知恵や賢さの原点があり、それが「幼子のような者」の姿です。それはギリシアの哲学者ソクラテスが言う「無知の知」、即ち知らないものは知らない、だからこそより多くを学びたいという姿勢です。ソクラテスのことを知らなかった日本人でも、昔から「初心に帰れ」と言って、実は無意識の内にソクラテスの教えを実践してきました。マハトマ・ガンジーは「明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ」と言いました。人の死期は定かではなく、いつまでも生きながらえることはできない。しかし学ぶこと、知ることはこれで終わりという区切りはなく、貪欲に生涯学び続ける姿勢を持ち続けよとガンジーは言うのです。

 しかし学ぶことにおいて、正しく答えることは大切ですが、正しく問うことはもっと大切なのです。発する問いで、その人は判断されるのです。フランスの哲学者ヴォルテールは、真の人間性を見る方法として「人間は、その人の受け答えではなく、その人が発する問いによって判断されるべきだ。」と言いました。問いが正しく発せられないと混乱が生じます。どこでもそうですが、しばしば見られる大きな対立は、このことに起因した感情のもつれであることが多いのです。

 複雑な世の中に迎合して、信仰や教会までも複雑なものにしないでください。複雑な世の中だからこそ、幼子のような心構えで単純な信仰を常に保ちつづけてください。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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