「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」(マタイ13:3)
今日の福音に示されるように、当時の種蒔きは非常に非効率で、手で種を土地一面に蒔き、それから耕して種に土をかぶせたそうです。そのため無駄になる種も多かったようです。しかし何事も効率を重んじ、僅かな材料や努力で多くの成果を求める現代ではこのような種蒔きはしません。それでは、このような譬えは現代に通用しないのかというと、そうではありません。神の種蒔きは、非効率な当時の農業と同じで一見して無駄が多いのです。
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)のと同じように、神は誠実に生きる人だけではなく、一見回心が難しいと思われる人にも、同じように福音の種を蒔き続けているからです。というのは、人の心は変わるからです。神は愛するからこそ人間に最大の恩恵として自由意思を与え、その自由意思を尊重し続けているのです。今は悪くても、いつかは良くなってくれること、今は茨や石地の心であっても、いつかはきっと良い土地となることを神は信じて、無駄に見えながらもどんな人にでも、どんな状況においても種蒔きを続けているからです。しかし反対に、今は良くても突然心が急変し悪い状態に陥ることも、私たちは常に経験しています。というのは、自由意思とは両刃の剣の恩恵だからです。
このように神の種蒔きは非常に非効率的です。同じように人間が人間らしく生きるためにも、非効率、非合理性に身をゆだねることも必要です。それを試行錯誤と言います。試行錯誤は人間の生き方の基本ルールであり、人間が新しい能力を身につけていくための必須のプロセスなのです。現代人は運動せず、画面ばかり見ながら狭い空間のなかで生活することにより、思考力、記憶力が低下し、脳が退化していることを指摘する科学者も少なくはありません。しかし非合理的なやり方で、思うように物事が進まなくても、その想定外の中に大きなチャンスが眠っているのです。不遇の中にチャンスあり。これからは不便な生活をした方が人間らしいと思います。
これからはAIで説教することも可能です。しかし、このことを次のように例えることもできるでしょう。ホールや施設など、ある場所にいつも綺麗な花が飾られている。どうしてこの花はいつまでも枯れず奇麗なのだろうかと、思わず手に取ったところそれは造化であった。この花は生きたものではないと思った途端、その花に全く美しさを感じなくなった。このような経験をされた方もおられることでしょう。AIによる説教もこれと同じです。花はいつか萎れるから美しい。人間もいつか死ぬからこそ美しい。人の言葉はそれぞれ個人の歴史に裏打ちされており、また弱さを持った死すべき運命にあるからこそ心に響くのです。そこに人間の面白さと、人間理解の醍醐味もあるのです。
(寄稿 赤波江 豊 神父)