「刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい」(マタイ13:30)
今日の福音書の譬え話には納得がいかないと思われる方も多いことでしょう。毒麦だと最初から分かっているのなら、なぜすぐ抜かないのかと疑問に感じます。それでは、主人が僕の言葉通りに「ああそうか、それでは抜いてしまえ」と言ったら、この話も終わってしまって黙想のヒントになりませんね。そこで一緒に今日の黙想のヒントを探してみましょう。
畑は私たちの人生です。では人生の毒麦は何かと言うと、一つは人間関係における不信ではないでしょうか。「私は人が信頼できない。私は人を信頼してきたがいつも裏切られてきた。本当は人を信頼したいが、それができない。」という声を時々耳にします。その原因の多くは、その人が幼少期に親から信頼されなかったことにあります。そしてこの根は深いのです。反対に、ある人は幼少期に親から信頼されて育ちました。その人は親だけではなく、信頼をもって人に接します。そうすれば人生や神など、根本的なことにも信頼をもって歩み、多くのことにチャレンジできます。
しかし幼少期に信頼されなかった人でも、人生は不信にのみ支配されているのではないということを信じる必要があります。人生は学び舎であり、今まで不信を経験したのなら、今度は信頼を経験しましょう。人生は毒麦だけではなく、良い麦も多いのです。確かに、直ちに不信感を脱却することはできないでしょう。しかし人間の成長と同じように、信頼感も成長するのです。そのためには、信頼できる人との出会い、その人とのポジティブな経験をもつ必要があります。ポジティブな経験を持つためには、ポジティブな言葉を使う必要があります。今までマイナスな言葉を使っていたのならまず言葉から変えましょう。人生を幸せに導く第一歩は言葉を変えることにあります。悪口、不平不満、マイナス言葉の多い人は人生でも仕事でも順調であるとは言えません。物事が順調にいく人は、その多くが感謝、ほめ言葉などのプラス言葉を発しているのです。人は普段思っている通り、発している言葉通りの人生を送っているのです。言葉を変えることは人生を変えることです。人を信頼するためには言葉を変えることから始めましょう。
ところで、人を信じると言ってもそれが100パーセントの信頼である必要はありません。100パーセントの信頼で臨むと、相手にがっかりした時の傷が大きいのです。相手に完璧さを要求しない90パーセントの信頼でいいのです。残りの10パーセントは相手にがっかりした時のために最初から割り引いておくのです。人生は学び舎であり、すべて人間関係は実験だと思えば、相手にがっかりしたとしても、それを人生という畑の肥料にすることができます。このように何事もプラスにとらえれば、お互いをユーモアの目で見て、結局お互い欠点だらけの人間とは、面白い愛すべき存在なのだということにも気付くでしょう。
人生という畑の毒麦にも意味があります。毒麦もユーモアの目で見ましょう。
(寄稿 赤波江 豊 神父)