7月30日 年間第17主日
黙想のヒント

「畑に宝が隠されている」(マタイ13:44)

 現代の私たちにとって宝とは何でしょうか。それは心の安らぎです。畑とは自分自身のことです。真の心の安らぎは孤独になることから生まれます。しかし私たちはしばしば孤独を恐れます。それは孤独と孤立を混同するからです。孤独とは周囲から取り残される孤立のことではないのです。孤独とは自分という人格と人生がこの世界で唯一無二であり、誰もとって代わることができないという意識から生まれます。そこから、誰も自分のことを理解してくれないのではないかという不安と戦いながらも、同時に人から理解されなくても、確固とした神と自分だけの場が心にあることが理解できます。私たちにはしばしばこの孤独が必要であり、この孤独の中で「聞き分ける心」(列王記上3:9)が与えられるのです。

 偉大な宗教の創始者たちは皆、一時人々から退いて荒れ野での孤独を体験しました。イエスも荒れ野で40日間の孤独を体験しました。荒れ野とは何もない所です。あるのは自分と神だけの世界です。この荒れ野の孤独の中でイエスは真の自分と対峙し、御父との新しい関係を見出しました。ですから教会はイエスのことを、神の「一人子」ではなく、「独り子」と表記するのです。私たちも、しばしば心の荒れ野に退きましょう。ドストエフスキーは、「しばしば孤独になるのは、正常な人間にとって食べたり飲んだりするより大事である。」と言っています。孤独の中で、孤立や不安ではなく我が家にいるような体験をするのです。我が家という言葉は安心感を与えてくれる言葉です。その真の安心感を与えてくれる我が家は心の中にあります。

 しかし、安心感とか平和な心の持ち主とは、決して世の中を動き回らず、社会のことに無関心な人のことを言うのではないのです。反対に平和な心の持ち主は、社会で最も忙しくしている人であることが多いのです。ちょうど激しく回転する発電機がエネルギーに満ちていながら、その中心は動いていないのと同じです。周りは激しく回転しているのに、中心部はほとんど動いていない。同じように、社会で充実して生きるために、心の深層部は常に静寂を保っていなければならないのです。

 ですから、孤独とは周囲からとり残される孤立ではなく、人生を実り豊かなものにするものであることを理解するためには、孤独を体験することによって、神と自分だけの心の荒れ野は、自分だけではなく全ての人が持っていること、そのことによって全ての人の中に自分を見出すことができるでしょう。なぜならば、命とは感じ取るものであって、目に見えるものではないからです。命とは私たちに与えられた時間なのです。だから時間の使い方は命の使い方なのです。だからこのかけがえのない時間をどう使うか、更にこの時間を自分以外の誰かのために使うことが、自分の本当の幸せであることに気付くでしょう。すべて人間関係は実験だと思えば、相手にがっかりしたとしても、それを人生という畑の肥料にすることができます。このように何事もプラスにとらえれば、お互いをユーモアの目で見て、結局お互い欠点だらけの人間とは、面白い愛すべき存在なのだということにも気付くでしょう。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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