8月6日 主の変容
黙想のヒント

「これはわたしの愛する子」(マタイ17:5)

 主の変容とは、イエスが弟子たちに受難予告、即ち苦しみと十字架の死を予告した後、3人の弟子たちに自分の光輝く姿を見せて、自分が真の救い主であることを示された出来事です。その、これから受難に向かおうとされた道で御父から、「これは私の愛する子」、即ち自分が天の御父から愛されていること、自分は一人ではないこと、御父がいつも共にいてくださることを確信しました。そして「これは私の愛する子」という言葉は、もはやイエスが御父から受けた言葉だけではなく、今度は私たち一人一人がイエスから語りかけられている言葉として受け止めましょう。

 「これは私の愛する子」というイエスの言葉に対する私たちの応答は、「ありがとう」でなければならないのです。8月は聖母被昇天祭やお盆で亡くなった人たちのことを偲びます。「終わりよければすべてよし」という言葉があり、これはシェークスピアの戯曲名のひとつですが、これこそ私たちの人生に当てはまるものです。命あるものの死は、悲しさだけではなく、その後にやさしい思い出を残してくれるのです。死んでゆく者の命が、残された者の心の中に生き続けるからです。

 美しい死とは何でしょうか。これは主観的な問題で、人それぞれ捉え方も違うでしょう。しかし私が今まで多くの人と接してきて、私なりに言えることは、死の直前まで愛を感じられる感性が保たれ、例えば一輪の花を美しいと思って見つめ、その香りを楽しみ、ほとんど食事ができなくても、一口のジュースやデザートを美味しいと感じ、そして更に自分の命が間もなく終わる、その別れのとき愛する人たちに「ありがとう」と伝えた人たちです。この「ありがとう」の一言は、残される者の心を救う何よりの遺産なのです。だから私たちはこの一言の偉大な価値をもっと顧みなければなりません。

 「初めに終わりのことを考えよ」とレオナルド・ダ・ヴィンチは言いました。平均寿命まであと何年と呑気に構えていても、死は定刻通りにやって来るのではないのです。人生のラストスパートは案外早い時期に始まっているのです。「まだこの程度では死なないだろうというときに最期を迎える。自分の見通しよりも2割くらい手前、登山で言うなら8合目で既に頂上だと知っておいてください。」(日野原重明)ですから、最期に「ありがとう」を残したいのであれば、最期だけではなく、それを普段から言う習慣を身につけなければならないのです。習慣は太い縄のようなもので、毎日一本一本と糸をより続けるうちに、断ち切れないほど強い縄になるのです。習慣が人間の性格、品性、人格を形成するのです。

 「人格は繰り返し行うことの集大成である。それ故秀でるためには一度の行動ではなく、習慣が必要である。」(アリストテレス)

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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