8月13日年間第19主日
黙想のヒント

「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」(マタイ14:27)

 今日の福音は、荒れ狂う波の中でイエスに助けを求める弟子たちの話しです。昔の人たちは、海には魔物が住むと考えていたようです。しかし現代の私たちも、津波や水難事故のニュースを見聞きするたびに、海には本当に魔物が住んでいるのではないかと思ったりさえします。今教会は平和旬間を歩んでいますが、現代私たちが恐れるべき魔物はもはや海ではなく、別のところに潜んでいるようです。

 古代インドに次のような話があります。ある四人の王子がいました。彼らは今世界で最も進んだ術を学ぼうと話し合い、それぞれ世界へ出かけてまた数年後に会おうということになりました。さて数年後、彼らはそれぞれどんな術を学んだかを話し合いました。最初の王子は、私はどんな骨であれ、それに肉をつけることのできる術を学んだと言いました。二番目の王子は、私はそれに毛をつける術を身につけたと言いました。三番目の王子は、私はそれに頭と手足をつける術を身につけたといいました。四番目の王子は、私はそれに命を与えることのできる術を身につけたと言いました。それでは、それを実験してみようということになり、彼らは森へ出かけました。やがて彼らは一つの骨を見つけましたが、どうやらそれはトラの骨のようでした。最初の王子がそれに肉をつけ、二番目の王子が毛をつけ、三番目の王子が頭と手足をつけました。いよいよ姿が完成したトラに最後の王子が命を与えました。間もなく、そのトラは眠りから覚めたように唸り声をあげ、四人の王子を次々とかみ殺して、再び森へ帰って行ったのでした。

 これはあくまでも古代インドの話ですが、現代社会への大きな預言者的役割を果たしている話であり、人間は自分が作ったもので滅ぼされるという恐ろしい警告なのです。古代インドの人たちは、この話がよもや世界的に現実味を帯びるとは思ってもみなかったでしょう。しかしそれは戦争、核兵器、環境問題、生命操作などあらゆる分野で現実化しつつあります。現代社会はこの歯止めの利かない時代の中で加速ではなく、もっと減速しなければならないのです。

 私たちは、このような社会問題に情熱をもって没頭するとき、ある種の危険性に直面します。それは情熱という言葉は魅力的な言葉ですが、それには落とし穴があって、周りが見えなくなると言うことです。特に社会問題に携わるとき、「反対」や「抗議」などの否定的な言葉をよく使いますが、このような習慣が根付いてしまうと、普段の日常会話でも物事の否定的な面ばかりに気を取られることになり、考え方も屈折しやたらと周囲の人に不安を助長することになります。

 私たちは地球の未来を心配しなければならないのと同時に、この地球は愛すべき存在であり、神はこの地球と人間を英知をもって導いているのです。ですから、この地球が問題だらけに見えながらも、それでも社会が動いているのは、私たちの周囲で無数の善意な人たちが、それぞれ考えや方立場の違いがありながらも、無償で働いてくれているからであり、そのような周囲の人々への感謝の気持ち常に持ちながら活動しないと、その活動も空回りすることになります。

 この荒れ狂う様々な問題の嵐の中で「主よ、助けてください」と叫ぶ教会に、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」というイエスの言葉は、私たちに単純な神への信仰で複雑な問題に立ち向かうよう鼓舞しているのです。この無数の情報が錯綜する複雑な世界に、今こそ「神を信じよ」「神を畏れよ」「神の愛を信じよ」「神の導きを信じよ」という声が響いています。「人格は繰り返し行うことの集大成である。それ故秀でるためには一度の行動ではなく、習慣が必要である。」(アリストテレス)

 この複雑困難な時代には、教会は単純堅固な信仰で対抗する以外に道はないのです。1925年の聖年に、今と同じような困難な時代に単純な信仰を証しした2人の聖人が列聖されました。リジューの聖テレジアと聖ヴィアンネです。2年後の2025年の聖年にも、きっと単純な信仰を証しした聖人が列聖され、教会に大きな希望を与えてくれることでしょう。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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