9月10日年間第23主日
黙想のヒント

「二人または三人が私の名によって
               集まるところには、私もその中にいる。」(マタイ18:20)

 二人または三人がイエスの名によって集まるためには、お互いの一致と調和ということが必要です。そのためには、私たちが自分自身と分裂することなく調和し一致して生きることが必要です。同じ福音書でイエスは「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる」(マタイ18:18)と言いましたが、私たち自身も自分の中で対立しているあらゆる部分をつなぎ合わせることで、内的な調和を保つことができ、やがて人とも調和を保ってそこにイエスを見出すことができるでしょう。

 自分の中で対立しあうもの、それは愛と怒り、希望と不安などです。愛と怒り、希望と不安は、実は姿を変えた同じ人間のエネルギーなのです。もし私たちが自分の中にあるこれらの対立を感知し、認め受け入れるならば、愛と怒り、希望と不安は、人間のエネルギーであり魂全体が奏でるシンフォニーのように、互いに違った響きで調和を保っていることに気付くでしょう。しかし反対に、怒りや不安というものを無理に押し殺して生きるならば、魂全体が奏でるシンフォニーもまた崩れることでしょう。

 「ものごとを部分ではなく全体として見ることができる者は、自分もまた感情や知覚、思考、意識が相互に結びついた相互依存の縁起(関係)の中にあると知っている。」(ブッダ)例えば、厳格で他者を裁く人は、その人自身の欠点や弱さを実際には克服していないのです。その人はそのような怒り、妬み、不安などのマイナス要素を無理に押し殺し、暴力的な力でそれを抑えつけているに過ぎないのです。そして同じような力で他者に向かいます。その人は自分を抑えつける力を他者にも投影しているのです。その人は未だ生身を帯びた人間の現実という挽臼によって砕かれていないので、人に対して優しくも穏やかにもなれないのです。「人が不安になるのは、出来事そのものではなく、それに対する解釈によってである。」というギリシャの哲学者エピクテトスの言葉が参考になります。

 日本の伝統的修復法に「金継ぎ」があります。割れたり欠けたりした陶器を漆で密着させ、その割れ目を金粉で装飾するこの修復法は、それを割れる以前の陶器以上の唯一無二の美しさに変容させます。同じように、神は十字架へ向かう道のりで、イエスの内に人生の最も醜い部分をつなぎ合わせ、そこに崇高な美を現わされました。だから私たちも自分の人生の最も醜い部分、恥と思われる部分に正面から向き合うことができるのです。私たちも目をしっかり見開いて、自分自身が割れた壺であることを認めましょう。しかしその心のひびや割れ目からこそ、本当の光が差し込んでくるのです。そうして神が奏でるシンフォニーに抱擁されて金継ぎされ、その自分の醜さからこそ新しい唯一無二の美を再発見することができるのです。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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