「七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)
厳しいイエスの言葉です。しかもシラ書は「憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪人にはこの両方が付きまとう」と警告しています。罪の赦しはイエスの福音宣教の最も大きなテーマでした。というのは、赦しは人間の永遠のテーマだからです。どうして人はお互いを赦せないのでしょうか。しかし人がお互いの中で使う「赦す」という言葉は上からの目線の言葉であり、しばらくは復讐を控えてやるというイメージがあります。このイメージにとどまる以上、イエスが望む赦しに近づくことは難しいでしょう。結局、赦しは神のみに属する言葉であり、お互い同士の間では和解という言葉がよいのではないでしょうか。
そしてお互いが和解できない理由は、実はその人は未だに自分自身と和解していないからです。自分自身との和解は、自分との平和であり、理想通りにはいかないありのままの自分を受け入れ、肯定することです。言い換えれば、自分の欠点や弱さにやさしく接吻することです。反対に自分自身の中で分裂があり、自分自身と和解していない人は、周囲にも分裂をもたらします。
例えば、信仰深さの故に引き起こされた内的な分裂が、周囲の人に悪影響を与えることがあります。信仰深く生きることは大切ですが、極端に高い理想像を持つ人は、それにそぐわない自分の闇の部分を排除分離しようとします。そしてそれを今度は他者に投影し、他の人の中に悪や何らかの悪魔的な力を見出します。そのような人は自分自身の心の中にある悪魔を排除分離することによって、周囲の世界の至る所で悪魔を見出すのです。従ってこのような人の周囲では分裂が生じます。
人と和解するためには自分自身と和解していなければなりませんが、それは自分の気持ちや欲求を抑えつけ、排除することではないのです。全ての感情は意味を持っています。人に対して腹を立てることは、何かを変え、何かを違う風に見るための刺激です。その怒りを適切に表したとき怒りが何を意味しているか見えてきます。怒りというものはしばしば、他の人が考えたり感じたりしたことを言っているのではなく、問題の核心を避けていることを意味しているのです。そのとき自分自身が何を考えていたか反省することができるでしょう。そのような自分の弱さを真摯に受け止めたとき、他の人の弱さをも真摯に受け止めることができ、その人を受け入れ和解することができるでしょう。
このような敵意、憤り、怒りの問題で傷つき悩む私たちに、アメリカの作家マーク・トウェインの次の言葉は真実に迫ってきます。
「かくも短き人生に、争い、謝り、傷心し、他人を責める暇はない。あるのは愛するための時間だけだ。たとえそれが一瞬にすぎなくても。」
(寄稿 赤波江 豊 神父)