「悪人が自分の行った悪から離れるなら、彼は自分の命を救うことができる」(エゼキエル18:27)
命には限りがあります。寿命とは私たちに与えられた持ち時間のことです。ですから時間は有効に使わなければなりません。時間の使い方は命の使い方です。しかしそれは時間を支配することではありません。人間が時間を支配しようとする思いが、かえって人間を時間の奴隷にしているのです。
かつてソ連政府は工場を一年中稼働させて生産性をあげるため、1929年にカレンダーを書き換える計画を実行しました。即ち1週間を7日ではなく5日とし、4日働いて1日休むという計画です。大事なのは全員が同じ日に休まないということでした。即ち労働者は黄、緑、オレンジ、紫、赤の5グループに分けられ、それぞれが違う日に休みが割り当てられました。ソ連政府によれば、これは労働者にとってもメリットの大きい政策になるはずでした。休日が増え、客足が分散して、公共施設やスーパーの混雑が緩和されるはずでした。ところが実際には市民の生活は分断されてしまいました。カレンダーのグループの人たちは同じ日に休みをとることができないのです。夫婦であっても同じグループとは限らない。つまり家族でくつろぐことができないのです。ある労働者は政府の機関紙「プラウダ」に勇気ある投稿をしました。「妻は工場にいて、子どもたちは学校に行って誰も会いに来てくれないなら、家で何をすればいいのか。公共のカフェに行くしかないのか。休日が交代制で、労働者全員が一斉に休みにならないとはいったいどういう生活だ。一人ぼっちで過ごすなら休日の意味などない。」このカレンダー制は、1940年機械のメインテナンスに支障をきたすという理由で廃止されました。しかしソ連政府の実験は、時間の価値が量で決まるのではなく、いかに大切な人と共に過ごせるかという真実を図らずも実証したのでした。
パンデミックの後、生活形態が変わってテレワークが増え、時間をかけて通勤しなくても済み、好きな時に休みを取り、趣味の時間が増えてメリットが大きいように見える反面、案外孤独であり、友人や会社の同僚とのコミュニケーションが減ったという話もよく聞きます。気を付けないと、かつてカレンダーを書き換えたソ連政府の実験のように、私たちの生活が色分けされた作業グループのように、バラバラになる危険性が大きいのです。
冒頭で述べた、時間の使い方は命の使い方であると言うのは、時間をいかに支配するかという意味ではなく、どれだけ人のために時間を使うかということです。時間の無駄と批判されても、人のために時間を共有することです。今日の福音書で父親からぶどう園で働くことを命じられ、一度は断っても「後で考え直して出かけた」兄のように(マタイ21:29)、いつの時代でもメリットとデメリットがあり、家庭でも社会でも教会でも、もう一度「考え直して出かける」ことが求められているのです。
(寄稿 赤波江 豊 神父)