「眠っていないで目を覚まし、身を慎んでいましょう」(1テサロニケ5:6)
待降節が近づいてきました。パウロは、何に対して目を覚まし、身を慎んでいることを私たちに求めているのでしょうか。イエスは御父のみ旨を求め、しばしば山で一人祈り、特に大きな決断の前には一晩中祈っていたこともありました。イエスはどのような姿で祈っていたのでしょうか。それは多くの人の体験を通して、その祈るイエスの輪郭が浮かび上がってきます。例えば、あの「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」という言葉を残した発明王トーマス・エジソンは肉体や精神、宇宙などに対して独特の世界観を持っていて、自分の発明の原動力について、「人間、自然界のすべての現象は、人間の思いを超えた未知なる知性によって運命づけられている気がしてなりません。私自身もこれらの大きな力によって動かされ、多くの発明を成し遂げることができました。」と述べています。
この「人間の思いを超えた未知なる知性」に耳を傾けること、つまり1%のひらめきを得ることが大事であると日記の中で述べています。そして「最初のひらめきがなければ、いくら努力しても無駄である。ひらめきを得るためにこそ努力すべきなのに、このことが分かっていない人があまりに多い」と自分の発言が世の中に誤った解釈で伝わってしまったことを嘆いているくらいです。
エジソンは子どもの頃、汽車の中でキャンディーを売って働いていましたが、ある日乱暴な客に激しく耳を引っ張られ、それが原因で片方の耳が聞こえなくなりました。ある日、人から片方の耳が聞こえないことはハンディではないですかと尋ねられたところ、彼は笑いながら、「いいえ、ハンディどころか助かっていますよ。だいいち余計な人の話を聞かなくて済みますからね。それに内なる声に耳を傾けることができるようになりましたから。」と答えました。
彼は、発明や研究に行き詰ると、海辺に行き釣り糸を垂れるのが常でした。ただし糸の先に餌はありませんでした。彼は潮風に吹かれて波音を聞きながら、自然の中に身を置き、内なる声に耳を傾けることで、不思議と頭を悩ませていた問題の解決策が浮かんでくるというのです。自然界や宇宙から流れてくる未知の知性のアイデアをキャッチして、新しいひらめきを釣り上げるというエジソンの釣りにはそのような意味が込められていました。
イエスも山などで自然の中に身を置き、小鳥のさえずりや風の音を聞きながら、真のひらめきである神のみ旨を感じ取り、その中で自分が進むべき道を見出しました。祈りや黙想の真の意味はここにあります。自然の中に身を置く孤独の状態の中でエジソンはひらめきを、イエスは御父のみ旨を見出しました。人間の真の知恵はこの孤独の中からこそ生まれてくるのです。「眠っていないで目を覚まし、身を慎んでいましょう。」
(寄稿 赤波江 豊 神父)