11月26日王であるキリスト
黙想のヒント

「この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」(マタイ25:45)

 今日の福音はマタイにおけるイエスの最後の説教で、その結びがこの言葉です。即ち、私たちが最後に問われるのは「しなかった」という怠りの罪なのです。ミサの始めの回心の祈りに「わたしは、思い、言葉、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。」とあるように怠りは四番目に置かれていますが、場合によったら怠りの罪は無意識の内に日常生活を腐らせてしまう最大の原因でもあるのです。その怠りの罪の元凶は「めんどくさい」の一言に尽きます。この「めんどくさい」は決して言ってはいけない言葉で、全てを腐らせる言葉です。神と人との出会いも、何か大切なものを発見するチャンスも、幸せへの道も、この「めんどくさい」が全てを台無しにするのです。

 確かに人は基本的に怠惰です。必要がなければ努力しない、必要なことしかしようとしないのです。それでは、本当に必要なことは何か、自分は何を目指しているのか、自分はどう生きたいのか、ということを静かに問い続ければ大事なものが自ずと見えてきます。人は一生変わり続ける。そうであれば自分も変わり続けなければならない。もし現状に満足し、自分を変える必要を感じないなら、何十年も同じ台詞を繰り返し、新しい可能性を求めようとしないことになります。その元凶が「めんどくさい」です。

 いかに生きるかということは、いかなる心を持つかということです。人の心は自分が欲しいものや、興味があるものが目につくようになっています。つまりその人が見ているものは、その人が必要としているものなのです。人間の潜在意識はその人が信じたものを自動的に探し始めます。何でも感謝する人は、いつも感謝の要因を探し、反対「めんどくさい」を連発すれば物事の価値の無さを探しているのです。温かい目で人を見れば、人の良さしか見えず、「めんどくさい」で人を見れば、結局自分の人生を「めんどくさい」ものにしているのです。

 心が呼ばなかったものは近づいて来ない。人生で起こるあらゆる出来事は、自らの心が引き寄せたものです。心はそれ自身がひそかに抱いているものを引き寄せます。それは自身が本当に愛しているもの、あるいは恐れているものを引き寄せるのです。「運命とはその人の性格の中にある」(芥川龍之介)「人は性格に合ったような事件にしか出くわさない」(小林秀雄)「人の一生とは、その人が人生をいかに考えたかである」(ローマ皇帝で哲学者マルクス・アウレリウス)考えが変われば、心に抱く思いも変わります。するとその思いが生み出す出来事も自然に変わります。常に心を磨いて「めんどくさい」という垢を取り続け、純粋で美しい心で物事に臨むなら、どんな試練に直面しても、運命は必ずほほえみ返してくれます。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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