「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(ヨハネ1:8)
降誕祭を1週間後に控えました。しかしキリストがいつ生まれたかは、歴史的に定かではないのです。ではなぜ12月25日にキリストの誕生を祝うのかというと、当時ミトラ教という太陽神を拝む宗教があって、その太陽神の誕生日が12月25日でした。キリストこそ正義の太陽であると考えていた初代教会のキリスト者は、この太陽神の誕生日を借用して、この日にキリストの誕生を祝うミサをしていたのです。ですからクリスマスはキリストのミサという意味であり、キリストの誕生日ではなく、キリストの誕生を記念する日なのです。
その太陽と対比されるのは月です。暦でも、地球が太陽の周りを1周する時間を基準とするのが、古代エジプトでつくられた太陽暦であり、月の満ち欠けの周期を基準とするのが、古代バビロニアでつくられた太陰暦です。現在では日本を含むほとんどの国が太陽暦(現行太陽暦は1582年教皇グレゴリオ13世によって改良されたグレゴリオ暦)を採用しています。しかし詩歌などの世界では、人間はまぶしい太陽よりも、闇夜を照らす月にロマンを感じ、月の方が讃えられることが多いのです。
月は古来より、衰退のシンボルであると同時に、豊穣と再生、復活と希望のシンボルでした。つまり、月はその満ち欠けにより、人間の悲しみと喜びも象徴してきたのでした。しかし月は自ら光を発するのではなく、太陽の光を受けて輝きます。太陽の光がなければ、月は全くの闇です。古代教会の神学者たちは、教会をその月に例えました。月が太陽の光を受けて輝くように、教会はキリストの光を受けて輝き、さまよう人間の闇を照らす。たとえ教会そのものが闇であるとしても、キリストの光を反映しているのです。月はこの神秘を物語っています。
私たちにとって宇宙が間近になった現在、この例えをもう一度振り返ってみる必要があります。月は遠くからは美しく見えますが、実際は生物の存在しない岩だらけの砂漠であることが、宇宙飛行士によって明らかにされました。それでも太陽に照らされる時、月は光となって闇夜を照らすのです。教会も遠くからは美しく見えても、現実は月と同じような岩だらけの荒涼とした砂漠のようなものです。即ち、人間の弱さと失敗にまみれた歴史がそれを物語っています。それでも教会はキリストから受けた光を輝かせるのです。自ら輝くのではなく、受けた光によって初めて真価を発揮するのです。ここに教会の本性があります。
「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と福音が語るように、教会そのものも光ではなく、キリストの光を証しするための存在しているのです。
(寄稿 赤波江 豊 神父)