12月24日待降節第4主日
黙想のヒント

「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」(ルカ1:38)

 教会が典礼の中で必ず使っているヘブライ語があります。それはアーメンです。アーメンは「そうです」とか、「そうなりますように」などのように、創造主に対する絶対的な信頼を表す言葉です。マリアが大天使ガブリエルに答えた「この身になりますように」は、まさにヘブライの民が唱え続けてきたアーメンであり、そのアーメンは同時に私たちの人生の指針となる言葉、人生を肯定する言葉なのです。

 あのアウシュビッツ収容所を経験したヴィクトール・フランクルの著書に『それでも人生にイエスと言う』があります。彼の多くの著書は、単に人類史上空前絶後の大量虐殺の証言であるだけではなく、人間にとって限界状況と思われた強制収容所にあって、なおも人間の尊厳を失わず、生きる希望を捨てなかった人間の真実の証言でもあるのです。

 『それでも人生にイエスと言う』は、当時の囚人たちが作った歌『それでも人生にイエスと言おう』をタイトルにしたものです。彼らはそれを歌いながら、ごく僅かでもその言葉を実行に移して、ほとんど絶望的な状況の中でも生き延びたのです。彼らは命の意味についての問いかけを、自分中心に「我々は人生に何を期待できるか」から、「人生は我々に何を期待しているか」に修正したのです。あのアウシュビッツで全てが奪われ、自分の人生にもはや何も期待できないと語った人たちは次々と倒れていきました。人生は絶えず我々に問いを提出し、我々はそれに正しく答えて行かなければならない。即ち人間は絶えず人生から、生きる意味について問われた存在である、とフランクルは述べています。

 そのために彼は、何か精神的な支えが必要だった二人の男性の例を挙げています。彼らは「もはや人生に何も期待できない」として絶望のあまり自殺を試みたのですが、フランクルは、「人生が彼らに対してまだ期待しているものがある」ことを示して、彼らを自殺から救ったのです。即ち、一人の男性には大きな愛情を抱く一人の子どもが外国で彼を待っており、科学者であるもう一人の男性には、まだ完成していない本があったのです。自分を待っている人がいる、待っている仕事がある、ということに責任を感じた彼らは、決して自らの命を放棄することなく、それをつなぎ続けたのです。

 マリアはガブリエルから突然、男の子を身ごもっていることが伝えられました。当時未婚の女性が妊娠していることが分かれば、石殺しの刑が科せられたのです。マリアは目の前が真っ暗になったことでしょう。マリアはそれでも自分を待っている人がいることに気づきました。それはお腹の子どもで、自分が母親になることを待っている子どもがいる。自分はこの子のために、母親となるこの責任を引き受けなければならない。そこから命をつないで行ったマリアこそ、「それでも人生にイエスと言おう」の言葉を生きた人の典型でした。

 間もなく新しい年を迎えます。様々な試練が私たちを待ち受けていることでしょう。でもマリアと共に、「それでも人生にイエスと言おう」。  

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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