2月4日年間第5主日
黙想のヒント

「私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」(1コリント9:16)

 儒教の祖である孔子のエピソードです。楚国のある長官が、孔子の弟子である子路に、「孔先生はどのようなお方ですか」と尋ねました。ところが、どういうわけか子路は答えませんでした。後でそれを知った孔子は子路に、「お前は、なぜこう言わないのか、その人となりは、学問に発憤して食べることを忘れ、志した道を楽しんで憂いを忘れ、やがて老いが迫ってくることにも気づかずにいる」と言いました。 孔子は二つのことを忘れました。それは食べることと、くよくよすることです。さらに迫りつつある老いにも気づかないほど夢中にさせたのは、学問や道が彼の精神を奮い立たせ、楽しかったからです。

 この孔子のユーモラスな姿は、パウロにも当てはまります。パウロは多くの困難に直面しながらも、福音宣教にまい進することができたのは、人生を楽しむ姿勢があったからです。人生を楽しむというと、何か趣味の世界に生きるような印象を受ける人もいるかも知れませんが、決してそうではなく、与えられた命に感謝し、自分が使命と感じたことを、ポジティブな心構えで成し遂げていくことです。

 パウロもきっと、キリストに発憤して食べることを忘れ、福音宣教を楽しんで憂いがあっても、それを憂いとも思わず、やがて迫りくる老いにも気づかずにいたことでしょう。だからパウロの手紙には、喜び、感謝、賛美という言葉が非常に多いのです。「福音のためなら、私はどんなことでもします」(1コリント9:23)この言葉の中には彼の真剣さと同時に、何かユーモアさえ感じます。

 よく駅や施設のお手洗いに、「いつもきれいに使っていただいて、ありがとうございます」と貼り紙がしてあるのを目にします。これは、先にお礼を言うことで、きれいに使っていただくことを期待しているのです。実は、聖書も同じことを語っています。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4:6)普通の順序では、願いがかなってから感謝するのですが、先に感謝を込めて願いをささげることによって、「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(同4:7)つまり、先に感謝することによって、喜びは自然とついて来るのです。

 同じことは、泣くことについても言えます。何もおかしくも悲しくもない状態の人に、わざと泣いてもらう実験がありました。その後、被験者が泣いたことでどんな気持ちになったかというと、理由もなく悲しくなったということです。悲しいから泣くのではないのです。泣くから悲しくなるのです。泣く理由があって、悲しくなるのではなく、泣くという行為が悲しくさせるのです。同じように、笑うから楽しくなるのです。嘘でもいいから笑ってみてください。何か晴れた気分になるでしょう。笑いながら腹が立つことはありませんから。

 人生楽しんで生きましょう。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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