「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハネ2:25)
この福音書の前の箇所で、「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかしイエス御自身は彼らを信用されなかった」ヨハネ2:23)とあります。つまりイエスは、人々が御自分を一見信じたかのように見えても、それは真意ではなく、反対に彼らが御自分を苦しめることを知っていたのです。だから「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」その意味は、人は自分のことをよく知らないということです。
よく人の心は見えないと言います。しかし心の思いは必ず顔に、外面に現れるのです。人は自分の心を隠すことはできません。例えば、「この人嫌いだ」という思いでその人に接すれば、その表情は必ず相手に伝わり、相手も同じ顔をします。反対に、「この人好きだ」という思いでその人に接すれば、その思いは必ず相手に伝わり、相手も同じ顔をします。このように、人間関係は鏡のようなものであり、相手の顔は自分の肖像画なのです。自分の心は隠しているようで、実は見えているのです。だから私たちは自分を知らなければなりません。
人が悪く見えるのなら、それは自分の心に問題があり、悪いものを探そうとする心の表れなのです。ですから相手に変わることを要求するのではなく、自分の心を変えなければならないのです。人が善く見えるのなら、それは善いものを探そうとする心の表れであり、更にそれを続けなければならないのです。今の私たちは、全て自分が呼び込んだことの結果です。
古代ギリシアの七賢人の一人と言われ、「万物の根源は水である」と唱えた哲学者のタレスは、人から何が困難かと問われると、「自分を知ることだ」と答え、何が容易かと問われると「人に忠告することだ」と答えました。自分のことは、自分が一番よく知っていると思いますが、それは思い込みに過ぎず、実際はそうではないのです。鏡に映る自分の顔も左右対称で本当の姿ではなく、表情も自然体ではなく、鏡を見る時無意識に作っています。人に忠告するのが一番やさしい、というタレスの言葉は真実です。他人のことならよく見えますから。ですから客観的に正しく自分のことを知ろうと思ったら、人からの忠告を受け入れることが大事なのです。
熱心や情熱という言葉は非常に魅力的です。情熱をもって仕事や宣教に没頭すると聞くと、非常に理想的に響きます。しかし熱心や情熱という言葉には、落とし穴があるのです。それは周りが見えなくなるということです。自分は熱心に活動していると主張しながら、実際は明らかに客観的に間違っているにもかかわらず、人の忠告を受け入れず、暴走してしまうことがあります。自分は間違っていない、正しく歩んでいると思っているときにこそ、立ち止まって自分を振り返り、場合によったら人の忠告を受け入れる必要があります。
「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」
(寄稿 赤波江 豊 神父)