「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)
これは非常に大事な言葉ですが、同時にこの言葉につまづきを感じる人も多いことでしょう。それは、神がそれほどこの世を愛してくれるのなら、なぜこの世界には苦しみが絶えないのかという疑問です。その世界の苦しみの問題に、非暴力主義で勝利したのがガンディーです。かつての植民地インドは、それまでの欧米社会ではあり得なかった非暴力主義で、大英帝国から独立したのでした。彼は真にあるべき独立運動の姿は何かと追い求め、たどり着いたのが「塩」の問題でした。暑いインドでは塩は必需品です。その塩は自然の恵みで、海岸ならどこでも採れます。しかし大英帝国はその塩に税金をかけていたのです。
1930年3月12日、炎天下の中で78人の同志と共に、塩の行進と言われる抗議運動が始まりました。彼らは26日間にわたって、386キロの海岸の至るところにある塩の塊を拾い続け、やがてその行進は数千人に膨れあがりました。しかしこの行為は大英帝国の製塩法違反行為です。警察隊が鉄の棒で襲撃する中、群衆は抵抗せず塩を拾い続けました。
ガンディーのこの思想を、ヒンディー語で「アヒンサー」(非暴力)と言います。アヒンサーは単なる暴力の否定ではなく、ガンディーは「アヒンサーは愛である」と言うのです。群衆は鉄の棒で叩かれても、抵抗せず塩を拾い続けます。反対に暴力をふるう警官は、抵抗しない群衆に恐れすら感じている。警官の方が、心が弱いのです。反対に非暴力には強い意志と勇気が必要です。そして暴力をふるう人間の心の痛みが、暴力を受ける側の人間の身体的痛みを上回るとき、暴力をふるう人間の心の中に何かが生まれます。ガンディーは暴力で得られた勝利は、真の勝利ではないと考えました。弾圧された側が、暴力で応酬すると、相手と同じ低次元に陥る。ガンディーは、恐怖や怒りなど自分の内なる敵に勝ち、暴力を振う相手を赦し、愛をもって相手を変え、相手と共に歩むべきだと考えたのです。彼は熱心なヒンドゥー教徒でしたが、聖書のこともよく知っており、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ロマ12:21)「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない…」(1コリント13:4以下)などの言葉が彼の心の中に生きていたと思います。
日本人は政治と宗教を切り離して考えますが、インドでは生活の隅々にまで宗教が生きています。経済に関してガンディーは「神は、私たちが必要とする全てのものを与えてくださっていることを確信しなければならない」と言います。人間は自分に必要な分だけを受け取るべきであり、それ以上の不要なものは受け取るべきではないのだが、実際は自分の本当の必要量を知らず、無制限に求めようとする。だから「真の経済とは、需要と生産を増やすことではなく、慎重かつ果敢に欲望を削減することである」と述べて、21世紀の「欲望の削減」の思想を先取りしているのです。「ないものを嘆くのではなく、今あるものを喜ぶ、それが真の賢者である」(古代ギリシアの哲学者エピクテトス)
(寄稿 赤波江 豊 神父)