「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)
富士山の麓、静岡県御殿場市に神山復生病院があります。今は一般病院になっていますが、元々は日本最古のハンセン病療養所で、パリ外国宣教会のテストウィード神父によって1889年に創立されました。ハンセン病は数千年にわたって人類を苦しめた病気で、不治の病として恐れられていましたが、1943年アメリカで「プロミン」など治療薬の開発が進み、現在では完全に治る病気になっています。
私が神学生のとき、東京カトリック神学院の神学生は、毎年全員神山復生病院を慰問して、そこで療養生活をしている元患者さんたちと交流会をして、楽しいひと時をもちました。そこに井深八重さんという婦長さんがいました。彼女の父は衆議院議員で、ソニーの創業者の一人である井深大は遠縁、彼女自身も当時の同志社女学校(現同志社大学)を出て、長崎で英語教師をしていた才女だったのですが、22歳の時ハンセン病と診断されそこに入院させられました。当時多くの患者さんがそうであったように、彼女も親類から縁故を絶たれ、一時は堀清子と名乗りました。
しかし3年後それは誤診であったことが判明しました。彼女はそこから出ることもできたのですが、当時院長であったレゼー神父の患者さんに対する献身的な姿に感銘して、そこに留まることを決意しました。その後看護婦となって当時財政破綻寸前だった神山復生病院で当時のハンセン病の患者さん、その後療養生活をする人たちのために生涯をささげました。その献身的な姿が認められ、1959年教皇ヨハネ23世から「聖十字勲章」、1961年赤十字国際委員会から「ナイチンゲール記章」を受賞しました。また遠藤周作の小説「わたしが棄てた女」のモデルにもなったのは彼女です。
私が1989年に叙階して、同級生と初ミサのために神山復生病院を訪問し、5月16日には神山復生病院100創立周年の記念式典を迎え、井深八重さん当時の高松宮妃殿下から表彰を受ける予定でした。しかし彼女はその前の晩、その表彰を辞退するかのように、5月15日に91歳で静かに生涯を終えました。私が井深八重さんの偉大さを知ったのは亡くなった後のことで、多くの聖人たちと同じように、生前は黙々とにこやかに働く普通の看護婦さんだと思っていました。
彼女は若い頃、ハンセン病と誤診されて一時親類から縁故を絶たれ、謂わば、一粒の麦として死んだも同然とみなされました。しかしこの体験によってこそ、彼女はハンセン病の人たちと共に歩むことを決意し、彼らに生きる希望を与え、多くの実を結んだのでした。
彼女の墓は神山復生病院の中にあります。そこには、『カタリナ井深八重之の墓』 墓碑銘には彼女の自筆で『一粒の麦』と刻まれています。
(寄稿 赤波江 豊 神父)