3月24日受難の主日
黙想のヒント

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)

 これは十字架上のイエスの最後の言葉です。私たちも今までの人生の中で、このような絶望的な叫びを大病や仕事、人間関係の中で神に投げかけたことが何度かあるでしょう。しかしこのような絶望的な叫び、悲しみ、怒りは感情が備わった人間である限り当然のことです。しかし大事なことはそれに執着しすぎて、心まで患わさないことです。

 何でも気に病む人がいます。昔のこと、今のこと、また将来のことについて、全てを苦労の種にしてしまう人がいます。「杞憂」(きゆう)という言葉があります。これは中国の古典「列子」に由来する言葉で、杞の国に天が落ちて、地が崩れると心配して食事や睡眠もとれなかった人がいました。それを見かねた人が説得し安心させたという説話が語源です。

 「1年前にあなたが悩んでいた事柄を思い出していただきたい。どうやってそれを切り抜けただろうか。そうした悩みにばかり気にかけて、エネルギーを浪費しなかっただろうか。結局そうした悩みは、ほとんど取り越し苦労だったのではないか。年月が経つにつれ、私は徐々に自分が悩んでいたことの99パーセントは決して起こらないことを知った」(デール・カーネギー)

 反対に、苦労を苦労とも思わず、悲しみを悲しみとも思わない人がいます。それは決してその人の心が無感動であったり、強がったりしているのではありません。その人の心の中に人生を楽しむ気概のようなものがあるのです。つまり、苦しみでさえ楽しんで対処できる心の余裕です。失敗しても、そこから何かを学び取る姿勢。教師や上司から叱られても、いい勉強になったと感謝し、また病気や事故に遭遇しても、人生は学校だ、学校には授業料が必要なのだよ。でも今回は高い授業料を払わされたよと、あっけらかんとできる人は、心の中に人生を楽しむ気概と、喜びがあるのです。人生を楽しむ気概があれば、逆境をチャンスに変えることができます。そのような人に共通するのは、前向きな言葉と感謝の言葉をいつも使っているということです。そのような人はユーモアの精神も忘れません。反対に、不平不満、悪口、否定語の多い人は、人生につまずくことが多いように思えます。人は普段思っている通り、発している言葉通りの人生を送っているのです。人生を幸せに導く第一歩は言葉を変えることにあります。

 また苦境に立ったときには、プラスサイドから見直すことも大切です。まだ命がある、まだ健康がある。まだよい妻、夫、家族がある、よい友人がいるなど、プラス面を数えてそれを集め、戦力として最大限に活用すれば必ず道は開かれます。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)のなら、私たちもまた、この人生を楽しむ気概で、苦しみと仲良く付き合いましょう。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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