3月31日復活の主日
黙想のヒント

「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」(ヨハネ20:9)

 復活信仰はキリスト教の核心ですが、他のイエスの倫理的な教えと違って分かりにくいものです。というのは、私たちはまだ死を経験しておらず、死んだ人はもはや死について語らないからです。確かに自然科学の発展は人類に絶大な影響を与えました。やがて人間は自然科学で解明できないことは何もない。魂の問題など、もし科学で解明できないことがあれば、それは即ち存在しないことであるという、科学崇拝者も現れました。しかし全て科学的に立証されない限り真実ではない、存在しないとも言えません。そもそも魂や超自然的な現象などは科学研究の対象外であり、科学で立証される必要はないとも思われます。

 私たちの中には、あらゆることを科学の力で解明して、知りたいという自分と、目に見えない神や、亡くなった家族の魂がいつも自分と共にいて、見守ってくれていることを心で感じる自分が、矛盾することなく共存しているようです。ですから、科学で立証され、五感で感じられる「事実」と人間の第六感(心)でとらえられる「真理」とは異なります。大事なことは、超自然的な現象それ自体に意味があるのではなく、そのような現象を通して受ける啓示、あるいは導き出される真理こそが本質なのです。

 数学者、物理学者、科学哲学者で最後の万能学者と呼ばれたフランス人のポアンカレは、科学は真実ではなく仮説に過ぎないと言っています。科学理論で説明できない現象が起こったら、まずはその事実を確認すべきで、本当にその現象が起こったら、見直すべきはその現象ではなく科学理論である。科学は仮説であり、その仮説は何度も検証にさらされなければならない。そして検証というテストを通らなければ、いさぎよくそれを捨てなければならない。しかし、自分の仮説を放棄することになった学者は、むしろ喜びに満ちているはずである。なぜなら、彼は予期せぬ発見の機会に遭遇しているからであると述べています。例えばダーウィンの進化論も何度も検証し直され、実は彼の進化論もいまだに進化し続けているのです。

 ですから人間にはあらゆることを知る力があるが、魂の問題に関しては、今は分からない、心で感じることしかできない、と謙虚に神に向かっていく姿勢が大事かと思われます。

 この人生の戦いの場を、競技場に例えることができます。競技場には観客席が必要ですが、その観客席は来世です。しかし競技場と観客席の間にはハーフミラーがあって、競技場から観客席は見えませんが、観客席からは競技場が見える。このように考えれば、見えない神や亡くなった家族が、私たちの人生の戦いを応援してくれているイメージがわくと思います。

 考えてみれば、私たちの誕生、親友との出会いや結婚などは、無限の可能性の中から生まれました。例えば結婚など、最初は偶然だと思っていた出会いも、時を経て「私たちは出会うべくして出会ったのだ」、また生まれてきた子どもを見て、「この子は生まれるべくして生まれたのだ」と感じるようになります。そうして人生における様々な出会いや出来事は、決して偶然ではなく、神が備え導いてくれたと考えれば、今「私たちは共にいるべくしているのだ」、そしてこの世の生活を終えた後も、「私たちは共にいるべくしているのだ」と考えられます。この生の連続性が復活信仰なのです。

 イエスは死を通して復活の栄光に入りました。死がなければ復活もなかった。そうであれば、死は私たちに与えられた最大の救いであるとも言えます。死があるからこそ、私たちはこの人生を誠実に懸命に生きることができるし、またそのように生きなければならないのです。

 人生の旅はこの世だけで終わるのではなく、肉体が滅んだ後も、心でしか感じられない姿で永遠に続くのではないでしょうか。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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