4月28日復活節第5主日
黙想のヒント

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)

 間もなく5月聖母月です。聖母マリアを象徴する花はバラです。以前赴任していたある教会の庭に、大きなバラの木がありました。その木は毎年大輪の赤いバラの花をたくさん咲かせていました。ちょうどこの時季、バラのつぼみもふくらんで、まもなく大輪の花を咲かせようとしていました。しかしある日大雨が降って、せっかくつぼみをつけていた枝が折れているのです。もっとも皮一枚で木にぶらさがってはいるのですが、生きる見込みはないように見えました。

 数日後、そのバラの木の前を通り過ぎようとした私は、折れかかったバラの木のつぼみに釘付けになりました。何とそのつぼみが立派に花を咲かせているのです。完全に木につながっていなくても、わずか皮一枚で木につながり、その皮から樹液をもらって花を咲かせているのです。

 自然界の神秘は、同時に人間の神秘です。自然界の生命力は旺盛です。それならば人間の生命力もそれと同じか、それ以上に旺盛なのです。人間は弱いように見えても、本当は強いのです。私たちの神への信仰をパーセントで表すとすれば、100パーセント神につながっている人はいるでしょうか。それでは50パーセントでしょうか。20パーセント、10パーセント、あるいは5パーセント、1パーセントでしょうか。でも大事なことは1パーセントでも、0.5パーセントでもいい、とにかく神につながっていることです。

 蜘蛛の糸のような信仰でもいい、神につながってさえすれば、必ずそこから救いは生まれます。このつながっていることを希望と言います。例えば、ある日突然家電製品が動かなくなって故障したと思っていたら、単にコンセントが抜けていただけということがありした。そのコンセントを差し込んだら、再び元気よく家電製品が動き出したのです。電気は目に見えません。同じように目に見えない希望は神へのコンセントです。人間生きている限り希望はあります。

 「希望があるところに人生がある。希望が新たな勇気をもたらし、再び強い気持ちにさせてくれるのです」(アンネ・フランク)それでも「逆境にある人は常に、『もう少しだ』と言って進むといい。やがて必ず前途に光がさしてくる」(新戸部稲造)ことを信じましょう。

 世の中には、生きる希望について教えてくれる文学作品が数多くあります。例えば、アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイは3歳の頃、誕生祝に父親に初めて釣りに連れて行ってもらいました。ところが彼が釣った魚は、釣り客の中で一番大きかったのでした。それ以来、大自然と釣りは彼の人生の師となりました。

 彼の代表作『老人と海』は孤独な老漁師と巨大なカジキとの戦いのドラマです。格闘の末、老人はついに巨大なカジキを釣り上げます。必ず釣り上げるという信念の勝利です。しかしその帰路、船にくくりつけられたカジキはサメに食われ、無残にも骸骨となってしまいました。無念の内に帰宅した老人ですが、それでもこの『老人と海』は、どんなに打ちのめされても決して負けないという気概、人間の尊厳が表現された作品です。

 彼は「釣れないときは、魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい」と言っています。同じように、人生の実りが感じられないときは、神がもっと味わい深い人生について考える時間を与えてくれたと思えばいいのです。人生の実りが感じられない理由は、もしかしたら自分のことしか考えていないことにあるのかも知れません。幸、不幸はとらえ方の問題です。視点を変えれば、不可能も可能になるのです。

 「人が生きる上で、最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。転ぶたびに起き上がり続けることにあるのだ」(南アフリカ大統領ネルソン・マンデラ)

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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