6月2日キリストの聖体
黙想のヒント

「これは私の体である。これは私の血である」(マルコ14:22,24)

 食卓は、私たちの生活の中で最も親しみのある場の一つです。その食卓で私たちは家族が、そして友人が自分の命の一部となるよう招くのです。私たちがお互いのための食物となりたいと思う場、それが食卓です。そして食事のとき私たちは最も無防備になります。イエスが言われた言葉、「これは私の体である。これは私の血である」は司祭がミサの中で繰り返すだけではなく、私たちはこの言葉を食事の度に繰り返しています。「もっと食べてください。もっと飲んでください。この食事はあなたに喜んでもらうために私が作ったのですから。これはあなたに与える私自身の心なのですから」このように私たちは共に食事をするとき、自分自身を相手に与えようとしているのです。しかし本来喜びの場である食卓は、それが最も欠けていることを経験する場ともなり得るのです。例えば食卓で夫婦が言い争うとき、兄弟姉妹が口喧嘩をするとき、また何かの悲しみで重苦しい沈黙が食卓を覆うとき、食卓は最も近づきたくない場、地獄と化します。

 私たちは食事の始めによく乾杯します。同じように私たちの人生にも乾杯しましょう。人生に乾杯するということは、ただお互いの幸せを祈るだけではなく、今まで生きてきた、体験してきたことの全てを今、他の人たちのための贈り物としてささげ、共に祝うことを意味します。幸せな人生とはことごとく人のための人生なのです。特に私たちは人のために生きようと決意したとき、それまでの自分の限界を乗り越えることができます。そして神と人への感謝の心があって初めて、過去の妬み、後悔、怒りなどを未来への実りに変容させることができるのです。

 人生の杯を飲むということは、喜びであれ悲しみであれ、それらすべてをよしとして、かけがえのない学び舎である自分の人生の確立のための恵みとして受け入れることを意味します。ぶどうの実が良いぶどう酒になるためには、ぶどうの実が踏みつぶされ、更に発酵という長い忍耐の時が必要なのです。ですから人生には喜びだけではなく、悲しみも必要なのです。子どもが父母を必要とするように、喜びと悲しみは、私たちにとって霊的な父であり母なのです。特に苦悩の深さは祈りの深さに比例するからです。

 イエスは生涯の最後に自分自身をパンという形で私たちに残されました。このように私たちも、人間の最も根源的な願いが自分自身を人に与えることだということが分かれば、死と呼ばれる人生の千秋楽を、残された人への最良の贈り物とすることができるでしょう。特に感謝の心で、神と家族、友人たちに感謝しながら、残された人たちに勇気と希望を持って生きてほしいと心から伝えるならば、私たちの死は残された人たちにとって最大の贈り物となり、彼らにとっても新たな命の始まりとなるでしょう。イエスの死だけではなく、私たちの死も、他の人にとって益となるよう定められているのです。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

トップページ | 全ニュース