「お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く」(創世記3:15)
アダムは、神から食べることを禁じられた木の実について神からとがめられたとき、彼は「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので食べました。」(同3:12)と言い訳をし、女は「蛇がだましたので、食べてしまいました。」(同3:13)と蛇のせいにします。このように、人間の本来の罪は禁じられた実を食べたことではなく、むしろその罪の責任を「人のせいにする」ことにあるのではないでしょうか。
何か問題が生じ、それがなかなか解決しないとき、必ず共通した一つの症状があります。それは「人のせいにする」ということです。神が創造したこの世界、より良い方向へと進もうとしているのに、それを妨げるものの一つは、何か問題が生じたとき、それを「人のせいにする」ということです。ですからお互いの「敵意」は、「人のせいにする」ことによって神ではなく、人間が自ら築いているのです。何か問題が生じたとき、人のせいにして人を批判しても何の解決にもなりません。むしろ人を責めることで不平不満というマイナス感情に支配され、前向きな努力を怠るようになるのです。それに対して、自分はどうあるべきか、自分には何ができるのか、全てを自分に置き換えて考えないと何の解決にもなりません。
「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」(マルコ3:21)イエスは宣教活動の間多くの病人や悪霊に取りつかれた人を癒しましたが、律法学者の中には「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とか「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(マルコ3:22)という者もいました。律法学者の視線は最初イエスに向けられていました。しかしよくあるように、悪い噂が立つと、その視線は本人から家族や身内に及びます。従って悪霊の噂はイエス自身から、身内の人たちに及んだのです。即ち身内の人たちも、まるで悪霊の一族のように見られていたことでしょう。そのため創世記の話と同じように、身内の人たちも問題が生じたとき、それを「人のせいにする」ことで自らイエスと間に「敵意」を築いていたのです。
しかし聖書には私たちに大きな希望を与えてくれる箇所があります。イエスが復活して昇天し、弟子たちが聖霊降臨を待っていたとき「彼ら(弟子たち)は皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(使徒言行録1:14)とあります。イエスの兄弟たちというのは、イエスの身内のことです。イエスの宣教活動の間イエスを理解せず、「敵意」さえ抱いていた身内の人たちの不信仰は、イエスの死と共に葬り去られ、イエスの復活の力によって新しい信仰として生まれ変わったのでした。
家族や身内の問題で悩んでいる方も多いことでしょう。しかし神が創造されたこの良き世界、全ては必ず良くなると信じましょう。そして皆さんの家族、身内である「イエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」教会の姿が皆さんの家族の中で再現され、聖霊の喜びが皆さんの中に満ちあふれますように。
(寄稿 赤波江 豊 神父)