「わたしは弱いときにこそ強いからです」(Ⅱコリント12:10)
パウロが言うには、彼の身に一つのとげがあり、そのとげは彼を痛めつけるためサタンから送られた使いだと言うのです。そのとげの痛みは精神的なものか、身体的なものかは分かりませんが、とにかく「これさえなければいいのに」と思わせるほど厄介な痛みだったのでしょう。それでこのとげを取り去ってほしいと主に祈ったところ、「わたしの恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というのがイエスの答えでした。その意味は、「あなたは今のままでいなさい。人間の本当の強さは、自分の弱さを認めるところから生まれる。強くなろうとして強い人の真似をしてはならない」ということなのです。おそらくパウロの苦しみの根源は、これは人間に共通して言えますが、自分を他の人と比べるところにあるのです。私も昔、自分の性格上の悩みを人に打ち明けたところ(これも自分を人と比べてのことでしたが)、「それがあなたのいいところじゃないですか」と言われ、改めて自分に気づかされたことがあります。
パウロが言う弱さとは、失敗とか挫折、あるいは壁とも表現されます。実は、失敗は形を変えたチャンスであることが多いのです。失敗や挫折を経験しなかった人が、人類に寄与する大きな発見をしたり、発明したりしたことはありません。失敗は生き物です。どんな失敗でもそれをよく見つめれば、それに見合ったチャンスの種が含まれていることが分かります。しかしそれを見つけ出し、芽を出させ、成長させるには、明確な意思と想像力が必要です。失敗や不運が災いのまま残るか、恵みとなるかは私たちの反応次第です。新しい発見とは見方を変えることです。美しい景色を探して生きるのではなく、普段の景色の中に美しさを求めましょう。人間の心は何もしないで放っておくと、9割近くは否定的な方向へと傾きます。だから常に肯定的に考え、肯定的言葉を発し続けなければならないのです。
「予定通りの人生というものは、とかく平板単調なものでありまして、むしろ予定の破れて行く悲しみに逢いながら、しかもそこに新たなるより深い償いを見出して行く人生こそ、真に奥行きがあり、深みのある人生ということができましょう。実際わたくしたちは、自己にとって最大の期待の破れたような場合、そうした悲しみのどん底において、深い新たなる光明に接するのであります」「人間というものは、どうも何処かで阻まれないと、その人の真の力量は出ないもののようです。これは水力発電の理と同じことです」(哲学者森信三)
幸せになりたければ、「あの時ああしていれば、こうしていれば」と後悔するのではなく、「今度はこうしよう」と言うことです。人生とはおもしろいものです。何かを手放したら、必ずもっといいものがやって来るものですから。次のような詩があります。
「自転車を盗られた日 猫を拾った 傘をなくした日 虹を見つけた 風邪を引いた日 花をもらった」(詩人平田俊子)
(寄稿 赤波江 豊 神父)