「旅には杖一本のほか何も持たず」(マルコ6:8)
イエスは弟子たちを派遣するにあたり、杖一本のほか何も持つなと命じました。パンも袋も金さえも持つなと。これは字義通りに解釈するのではなく、この言葉が私たちに何を意味するのかを考えてみましょう。唯一持つことが許された杖は信仰を意味します。持つことが禁じられたとは、言い換えれば捨てなければならないものです。それは物質的なものに限らず、精神的なもの、特に経験、知識、才能など自我への執着です。イエスに従うことは大きな決断です。そのイエスが弟子たちに求められたのは捨てる決断であって、捨てずに持ち続ける決断ではなかったのです。
私も自分の人生を振り返ったとき、様々な決断、正しかった決断、間違った決断を繰り返してきましたが、やはり正しかった決断のほとんどは捨てる決断で、間違った決断のほとんどは、せっかく今までやってきたのだからと、捨てられずに持ち続けた決断でした。捨てるものとは経験や能力など過去に積み重ねてきたものです。捨てて得られるものは未来だけです。未来は何が起こるか分からない。だからこそ意外なものを手にしました。それは、まさか自分にこんなことができるとは思わなかったという、新しい自己発見です。反対に今まで積み重ねてきたのだから、もったいないと持ち続ければ、保守的になって動かなくなり、新たな自己発見もなくなります。成功したと思った途端、満足して古い考えを持ち続けて新しいものを求めず、後退が始まることがよくあります。だから「失敗は成功のもと」であるのと同じように、「成功は失敗のもと」なのです。しかし何もかも捨てろと言っているのではなく、新しいものを得るためには、何かを捨てなければならないのです。
このことはイエスも「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(ルカ5:38)と述べて、新しい考えを受け入れるためには、新しい精神を持たねばならないと強調し、さらに「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』というのである」(ルカ5:39) と言って、保守的なものに安住すれば、新しさを受け入れず、従って新たな自己発見もないと警告しています。
またイエスは、弟子たちが人々に迎え入れられず、耳を傾けることもしなかったら「彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」(マルコ6:11)と命じています。しかし私たちの日々の歩みの中で「払い落とすべき埃」とは何でしょうか。それは恨み、妬み、怒りなどこの類のものです。実は恨みや怒りなどは無意識の内に人間のエネルギーを消耗しており、それは徐々に身体を蝕み、やがて病気を引き起こすのです。恨みや怒りも、前述のように、過去の積み重ねを捨てない習慣から生じることが多いのです。捨てる決断を重ねれば恨みや怒りも生じなくなります。電気やガスと同じように、精神的エネルギーも効率よく使いましょう。特に人の幸せのために使うエネルギーは消耗するどころか、ますます蓄積されていきます。これこそが「人類の夢のエネルギー」なのです。
(寄稿 赤波江 豊 神父)