「イエスは飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた」(マルコ6:34)
福音書は羊を弱い動物の典型のように扱っています。しかし羊だけではなく、弱い動物はそれなりに自然の中で生きるすべを持っています。場合によったら、弱さを武器として自然界の中で適応して生きているのです。人間も同じように、弱さ、欠点、短所をもっています。しかし多くの人は自分の欠点や短所に悩んでいます。この欠点や短所さえなかったらもっといい人生を送れているのに、と嘆いている人も多いことでしょう。しかしそのような欠点や短所がなかったら人生は本当に変わるのでしょうか。仮にそのような欠点や短所がなくても、今度は別の欠点や短所を見つけて同じように嘆いていることでしょう。しかし自分の欠点に守られ、自分の短所に救われなかった人はいないのです。
私たちが欠点、短所、悩み、危機と感じていることは、視点を変えれば、それは長所、可能性、チャンスであるのです。実は欠点や短所は私たちの「かけがえのない友」なのです。「昨日の敵は今日の友」という諺と同じように、昨日の短所は今日の長所なのです。さらに「まさかの時の友が真の友」という諺と同じく、まさかと思っていた短所が実は自分の真の長所であり、それが人生を決定づけたことは多くの人が経験しています。
ですから次のように言い換えることも大切です。例えば、自分は優柔不断だ、でも本当は優しい。自分は怒りっぽい、でもそれは情熱がある証拠だ。自分は気が変わりやすい、それは好奇心があるからだ。自分は冷めたようなところがある、でもそれは冷静に判断できるからだ。このように言い方を変えていくうちに、自分自身を見つめ直して、自信を深めることができるでしょう。これは決して気休めではなく、「そのように振る舞えば、そのようになる」という原則で、念じていくうちに本当にそうなるのです。私たちは見方や視点を変えるだけで世界を変えることもできるのです。「世の中には幸も不幸もない。ただ、考え方でどうにもなるのだ」(松下幸之助)
「人間は一本の葦にすぎない。人間はそれほど自然の中で最も弱いものである。だが人間は考える葦である」(パスカル『パンセ』)葦は水辺に群生するイネ科の多年草です。弱々しく揺れる外見からパスカルは人間を葦に譬えています。広大な宇宙の中で人間は無力で惨めな存在です。しかし人間は思考によって、この広大な宇宙さえも包み込むことができるのです。人間の尊厳と偉大さはそこにあります。このように惨めさと偉大さ、無力さと無限という矛盾を抱えた存在である「人間は考える葦である」とパスカルは言うのです。なお聖書も弱い人間を「傷ついた葦」(イザヤ42:3)と表現しています。
人間の真の強さは自分の弱さを認めるところから生まれます。自分ができないことを見出すことで、実は他にできることを見出すのです。自分ができないことを見出すことは、自分を知ることです。そして本当に自分を知れば、自分にしかできない大切なことを発見することができるのです。
(寄稿 赤波江 豊 神父)