「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(ヨハネ6:9)
五千人を前にして、五つのパンと二匹の魚では「何の役にも立たないでしょう」とアンデレはイエスに言いました。しかし無駄に見えても、イエスは弟子たちの協力を求めます。なぜなら一見無駄に見えることにどれだけ力を注ぐかが、私たちの人生を決定するからです。
「何の役にも立たないでしょう」というアンデレの言葉は、実は早く結果を出したいという人間の日頃の試練なのです。「即戦力」という言葉があります。例えば、企業は学生が卒業したら即戦力として使えるよう専門性を高めてほしいと大学によく要請します。かつて大学には一般教養課程というのがありました。しかし早く専門の分野を勉強したいのに、なぜ高校の延長のような一般教養を勉強しなければならないのか、という不満の声もよく聞かれました。実際多くの大学ではこの一般教養過程が廃止されました。
ギリシア・ローマ時代に源流を持つヨーロッパの大学では20世紀まで、文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽を教え、これに習熟することが教養人の条件だったのです。このような学問はリベラルアーツ(liberal arts人を自由にする学問)と呼ばれ、人間をあらゆる偏見や束縛から解放し、自由な思考や発想を展開させるのです。現在のアメリカの一流大学でも、4年間はこのようなリベラルアーツを学び、それから更に専門に進みたい人は、ロースクールやビジネススクールなどに行くのです。ですからアメリカの一流大学では、「すぐには役に立たないこと」を教えているのです。
慶応義塾大学の塾長だった小泉信三は「すぐに役立つことは、世の中に出て、すぐに役に立たなくなる。すぐには役に立たないことが、実は長い目で見ると役に立つのだ」と言いました。例えば最先端の科学を勉強しても、世の中の進歩は早いので、4年間で陳腐化してしまう。そうなるとまた勉強し直さなければならなくなります。ですから本当に大切な教養というものは、すぐには役に立たなくても、長い人生を生きていく上で、自分を支える基盤になるものです。その基盤がしっかりしていれば、世の中の動きがいくら早くても動揺することなく、自分で物事を深く考え、総合的に判断することができます。
では最も大切な教養とは何かというと、それは自分自身を知るということです。そのためにはまず宗教というものを、即ち祈りをしっかりと学ばなければならないのです。宗教が生まれる以前から人間は祈っていたと言われます。即ち祈りには力があることを人間は知っていたのです。日本語でも祈りと言う言葉の語源は「生宣り」であり、「い」は生命力、「のり」は宣言を意味します。ですから祈りは生命の宣言とも言うべき行為なのです。
「何の役にも立たないでしょう」若い人たちがこの誘惑を退けながら、宗教、哲学、文学、自然科学、芸術などを学んで総合判断力を身につければ、長い人生の中で遭遇する多くの試練の中にも意味と人生を生きるチャンスを見出すことができるでしょう。
(寄稿 赤波江 豊 神父)