「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソ4:30)
パウロが「神の聖霊を悲しませてはいけません」というのは、聖霊の働きはエフェソ書で言うように親切、憐みの心、赦し、愛(4:32~5:1)だからです。パウロが警告する無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり(4:31)などは決して聖霊の働きではありません。一見していいと思われる考えが、必ずしも聖霊の働きというわけではないのです。ロヨラのイグナチオが『霊操』で、心が嵐の時は決して大きな決断をしてはいけないと述べています。嵐とは怒り、不安、パニックなどのことで、そのような心の状態で大きな決断をすると必ず後から後悔します。このことは多くの人が経験しているように、心が嵐の状態にある時は、「今解決しなければ」という焦りで行動に出てしまい、大きな失敗につながるのです。嵐が過ぎ去るまで忍耐強く待ち、それから決断しましょう。
アブラハム・リンカーンは、誰かに怒りを感じたらすぐそれを手紙に書きました。しかしすぐ投函せず、その手紙机の上に置いたままにしました。数日すればその怒りも収まり、手紙も出す必要はありませんでした。今はメールが主流です。今の私たちへの警告は、心が嵐の時は決してメールを送ってはいけないということです。そのような状態でメール送れば必ず後から後悔します。手紙は投函するまで時間がありますが、メールはタッチひとつで届いてしまいます。メールも嵐が過ぎ去った後の静寂さのなかで送りましょう。
イエスの生涯は、宣教の時と受難の時に大別できます。宣教の時は活動の時、受難の時は忍耐の時でした。私たちにも「炎の時」と「灰の時」があります。即ち何をやってもうまくいく時と、何をやってもうまくいかない時です。何をやってもうまくいかない時は、解決しようとして努力すればするほど、それが裏目に出るものです。このような時、「努力は解決をもたらさない」というインドの思想家クリシュナ・ムルティの言葉は真実に響きます。
人生が炎の時は、与える時、活動の時、エネルギーを発する時、語る時で、人生が灰の時は受ける時、待つ時、エネルギーを蓄えるとき、黙する時であり、熟成の時です。人生が灰のように感じられる時というのは、避けられないというより、このような時も意味があって必要なのです。果物の木さえ、実が多い年と少ない年があって、それで木の生長のバランスを保っているのです。人生炎の時と人生灰の時は、実は人生バランスを保って生きる上で必要であるとさえ言えるでしょう。むしろ人生が灰の時にこそ生きる深みを知り、人への思いやりも増します。
人生が灰の時はまたリラックスの時、休む時、熟成の時で、そのような時なりの人生の楽しみ方もあります。長い間上司と対立してついに職場を去り、ひどく落ち込んでいた男性が心療内科で相談した医師から「数か月酒飲んで寝ておけば治る」と言われ、実際その通りにし、時間もあったので読書などしているうちに回復して別の職業に就き、家族もできて今は充実した生活を送っています。
(寄稿 赤波江 豊 神父)