「(イエスは)天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である」(マルコ7:34)
イエスは同じように私たちに向かって「エッファタ」と言っておられます。何を「開け」と言っておられるのでしょうか。心でしょうか、希望でしょうか、未来でしょうか。つまりどういう心がけであればイエスに目を向け、人生を前向きに、ポジティブに生きることができるかという意味で「開け」と言っておられるように感じます。
明治の文豪幸田露伴はその著書『努力論』の中で、彼は人を徹底的に観察し、人生を肯定的に生きるためには、「他責ではなく自責で考える(何事も人の責任にするのではなく、自分の責任)」、「日々努力を重ねる」ことだと述べ、さらに「惜福」(せきふく)「分福」(ぶんぷく)「植福」(しょくふく)から成る興味深い「幸福三説」を述べています。
「惜福」とは、自らに与えられた福を取り尽くし、使い尽くしてしまわずに天に預けておくことで、その心構えが再度運にめぐり合うチャンスを高めると説いています。露伴は「幸福に遇う人を観ると、多くは惜福の工夫のある人であって、然らざる否運の人を観ると、十の八、九までは少しも惜福のない人である。惜福の工夫を積んでいる人が、不思議にまた福に遇うものであり、惜福の工夫に欠けて居る人が不思議に福に遇わぬものであることは、面白い世間の現象である」と述べています。
「分福」とは、幸福を人に分け与えること。自分一人の幸福はありえず、人を幸福にすることが、結局自らの幸福につながると述べています。露伴は「すべて人世の事は時計の振子のようなもので、右へ動かした丈は左へ動き、左へ動いた丈は右に動くもの、自分から福を分ち与えれば、人もまた自分に福を分ち与えるものだ」と述べています。即ち、幸せになりたければ、まず人に幸せの種を蒔きなさいということで、同時に「情けは人のためならず」という言葉につながります。
「植福」とは、将来にわたって幸せであり続けるように、今から幸福の種を蒔いておくこと、精進し続けることです。原因と結果の法則のように、過去に自らが蒔いた種が芽を出し、今の自分を創っています。過去を書き替えることはできませんが、今から良い種を蒔き続ければ、必ず望ましい未来を開くことができると説いています。同時に永遠の生命の入り口には、鮮やかな金文字で「人は自ら蒔いたものを刈り取ることになる」と書かれています。
幸田露伴はキリスト者ではありませんが、私たちは多くの人や思想、出来事に触れて何かに気づくことが大切です。人の成長は何かに気づいた時に起こるのです。人の成長は右肩上がりに進むのではなく、行き詰まりを感じる階段の「踊り場」のような状態があり、何かに気づいた瞬間、それを乗り越えてまた一歩上の段階に進むのです。勉強でも、仕事でも、信仰でもこの「気づきの瞬間」に向かって取り組み続ければ必ず道と希望は開かれます。
だから常に「エッファタ」の思いで歩みましょう。
(寄稿 赤波江 豊 神父)