「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)
イエスの受難の黙想なしにキリスト教の霊性はありえません。伝統的にも、教会は日々の苦しみを神にささげるようすすめてきました。しかし私たちの周囲には、自分と同じ十字架を背負っているはずなのに、十字架を十字架とも思わず朗らかに生きている人もいます。多くの聖人たちも、大きな十字架を背負いながらも、人には全くそのそぶりも見せず朗らかに生きてきました。しかし死んだ後その人の書き物などから、実は生前大きな十字架を背負っていたことが明らかになったのです。イエスは私たちに自分の十字架を背負うように命じても、諦めて悲しい暗い顔つきで生きるようには命じていないのです。
蝶は卵から青虫、そしてさなぎを経て、ある日突然、あの青虫からは似ても似つかぬ美しい蝶に変身します。その青虫が蝶に変身する大切な段階が「さなぎ」です。私たちにとっても自分を見つめ直し、変える大切な「さなぎ」が十字架、試練であり、それが「人生の聖変化」なのです。どんな試練に直面しても、それを乗り越える潜在能力が人間には与えられています。どんな難しい問題であってもそれを克服する鍵は自分自身が握っているのです。
試練に際して「どうして自分だけが」という不満な気持ちで臨むのか、「ここに何かチャンスがあるかも知れない」と捉えるかでその後の展開は大きく変わります。その違いは、試練に対してどれだけ「ありがとう」と言えるかにあります。疑問に思う方もいるかも知れませんが、試練に対して「ありがとう」と感謝の気持ちを差し込むことで心に余裕が生まれ、事態を冷静に捉え、見つめ直すことができるのです。試練に「ありがとう」と言えばそれはもはや十字架ではなく、自分を意識改革させ、成長させてくれるチャンスになるのです。
パリ・パラリンピックも私たちに大きな感動を残してくれました。しかしアスリートたちは常に怪我という魔物と隣り合わせに生きています。思い出すのは、フィギュアスケートの羽生弓弦選手が2018年平昌オリンピックの3か月前の右足首を負傷し、2か月間練習ができなかったことです。多くの人は彼の出場を疑問視し、メダルは無理、羽生の時代は終わったなどと考えていました。しかし彼は意識を切り替え、練習できない2か月間を「座学の時間」とし、過去の映像を通して自分が平昌オリンピックで実際演技するイメージトレーニングを重ね、治療方法やリハビリについてもじっくり研究しました。そして迎えた平昌オリンピックでは、ほとんどぶっつけ本番の状態から2連覇を果たしたのでした。彼自身、「あのまま順風満帆だったら、金メダルは取れなかった。これは確実に言える」と語りました。彼は怪我と言う試練を意識改革によってチャンスに変えました。
私たちは生い立ちも素質も皆違いますが、時間だけは共通して与えられています。私たちは時間を通して無限の可能性を見出しますが時間は有限です。時間の使い方は命の使い方です。個人でも教会でも何十年も同じマニュアルで生きていないでしょうか。意識改革が必要です。十字架がそれに気づかせてくれます。
(寄稿 赤波江 豊 神父)
私は9月16日から研修で3か月ほど海外に行きます。その間黙想のヒントは休止となります。皆様にはその間過去の黙想のヒントを再度読み直してくださるようお伝えください。次回の黙想のヒントは12月15日待降節第3主日から再開します。赤波江