12月15日待降節第3主日
黙想のヒント

「私たちはどうすればよいのですか」(ルカ3:10)

 群衆や徴税人、兵士たちが洗礼者ヨハネのもとへやって来て、回心を求めそれぞれ「私たちはどうすればよいのですか」と尋ねます。ヨハネはそれぞれ指示を与えますが、彼の指示は当時の人々には厳しく感じられたかも知れません。待降節にあたり「私たちはどうすればよいのですか」と尋ねる私たちに、神は何か厳しい指示を出されるのではないかと不安を感じている人もいるのではないでしょうか。

 神の国は正義だけでは実現されません。いつくしみも絶対必要です。その正義といつくしみの概念は聖書が書かれた時代背景も参考にしながら、時代や国民性によって思惟方法が異なることも考慮する必要がありますが、その中心点は常に「人は悪いのではなく弱いのだ。人は弱さのゆえに罪に陥るのだ」ということです。

 聖ヴィアンネーが主任司祭をしていたアルスの村で、ある人が川に身投げをして自殺しました。しかしその時代の教会の教えは非常に厳しく、自殺した人の葬儀ミサを教会で行うことは禁じられていました。ところがヴィアンネーはその人のために教会で葬儀ミサを行うと言うのです。それに対して信徒たちは、教会で自殺した人の葬儀ミサは禁じられているではないかと抗議しました。彼は「それでは、その人が身投げした橋から川まで何メートルあるか」と信徒たちに尋ねました。信徒たちがその長さを答えると、「その人は橋から身投げして川に落ちるまでの間に回心したかもしれない。だから私はその人のために教会で葬儀ミサを行います」と彼は答えました。何とこの聖人は当時の教会の教えを堂々と破ったのでした。しかし彼は神の掟は守りました。神の掟とは、神は全ての人の救いを望んでおられる。従って私たち人間も全ての人の救いのために祈らなければならないということです。

 東洋の知恵も参考にする必要があります。『論語』に次のような話があります。葉公が得意げに孔子に語りました。「私の村に大変正直な者がおりまして、その男の父親がどこからか迷い込んだ羊をそのまま自分のものにしていたのを、その男が告発したのでございます」それに対して孔子は答えました。「私の村の正直者はそれとは全く趣が違うのである。父は子のためにその罪をかくしてあげるし、子は父のためその罪をかくしてあげるのである。そういうところに人間の本当の正直さというものがあるのではなかろうか」ここで言う父子が互いに罪をかくすというのは、お互いをかばい合うという意味にとらえるべきでしょう。

 知恵の書の中に私の好きな言葉があります。「全能のゆえに、あなたは全ての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。あなたは存在するもの全てを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない」(知恵の書11:23~24)

 神は私たちを回心に導くために罪を見過ごしてくれる。つまり、もはや罪をなかったことにしてくれる。嬉しいことです。だから安心して神に近づきましょう。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

無事フィリピンから帰国しました。日本は寒いです。でもクリスマスのこの時季は寒いのがいいですね。南国のクリスマスは短パンやTシャツの人も多く、あまりクリスマスの実感が湧かないです。待降節第3主日黙想のヒントを送付いたします。よろしくお願いします。赤波江

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