「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」(ルカ1:45)
マリアのエリザベト訪問はロザリオの祈りの中で喜びの神秘として祈られています。従って多くの人は、マリアが主を身ごもった喜びをユダの町に住むエリザベトに伝えに行った出来事として、即ち日常生活の一場面として受け止めています。しかし私は、この短い話しの行間に隠された二人の女性の苦悩を感じ取っています。確かに、この出来事は最終的には喜びとなりましたが、最初は将来に不安をいだいていた、二人の女性の出会いであったと思います。
マリアは天使ガブリエルから男の子を身ごもることを告げられましたが(1:31)、だいたい身に覚えもないのに妊娠を告げられて喜ぶ女の子がどこにいるでしょうか。しかも当時の掟では結婚前に妊娠した女性は姦通と見なされて石殺しの刑に処せられるのです。マリアの前にはこのような恐ろしい状況が待ち構えていました。恐らくマリアは両親にも話すことができず、一番頼りにしていたエリザベトに相談に行ったのでしょう。従って彼女が「急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(1:39)のは不安と焦りの表れであったのです。
一方マリアを迎えたエリザベトも大きな不安を抱えていました。マリアは「ザカリアの家に入ってエリザベトに挨拶した」(1:40)のですが、ザカリアは登場しません。というのは、ザカリアはその時口が利けない状態だったのです。彼は天使ガブリエルから妻のエリザベトが身ごもることを告げられましたが、疑ったため口が利けなくなったのです。(1:20参照)ちなみに、この出来事はザカリアへの罰としてではなく、彼は子どもが生まれるまで神とともにいることだけが求められたと解すべきです。しかしエリザベトはどうしてザカリアが口が利けなくなったか分からず、この状態が一生続くのではないかと不安を抱いていました。今と違って障がい者に理解の無かった当時としてはなおさらの事だったのです。
従って、マリアのエリザベト訪問は、二人の大きな不安を抱えた女性の出会いであり、これから私たちはどうやって生きて行ったらいいのだろうかと話し合ったことでしょう。そして二人の結論は、私たちに残された最後の道は神を信じることだけだ。二人で信じればどんな困難でも必ず必ず乗り越えることができる。これから二人でしっかり生きて行こう。この会話の結びが、エリザベトがマリアを称賛した「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」でした。従って伝統的なマリアのエリザベト訪問の絵画に見られる二人の女性の抱擁は、最初の出会いの抱擁ではなく、以上のように二人で話し合った結果の決意の表れであったと私は解釈しています。
今日の黙想のヒントは、あくまでも私なりのイマジネーションです。皆さんも自由にイマジネーションを働かせながらこの物語を読んでください。しかし、二人の女性のその後の人生は、決して平たんなものではなかったことだけは確実です。
(寄稿 赤波江 豊 神父)