「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(ルカ2:51)
今日の福音の話に納得がいかない方も多いことでしょう。「祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった」(2:43)なぜ気づかないのですか。親子は一緒に帰らなければならないでしょう…と今の私たちは考えます。しかし当時は集団で旅をするのが普通であり、しかも男女別に歩きました。一方子どもは男のグループや女のグループを行ったり来たりしていました。従ってマリアは、イエスが男のグループにいるものと思い、ヨセフはイエスが女のグループにいるものと思っていたことでしょう。
ところが気がついたらイエスの姿が見当たらない。奴隷商人に誘拐されたのか、何か大きな事故にあったのか、両親の大変な動揺ぶりが目に映ります。3日目にやっと神殿で見つけたら、イエスは平然として学者たちと話し合っている。「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」(2:48)母親の悲痛な声が聞こえてきそうです。私たちもこの母親の声に共感しますが、「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(2:49)というイエスの返答に納得がいかない。むしろ「親の気持ちも知らないで…」と思う方も多いことでしょう。「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」(ルカ2:50)両親にさえ分からないのなら、私たちにはなおさら分かりません。
しかし一つ言えることは、イエスは12歳の時に神を選んだということです。私たちも人生の中で大きな選択や決断をしなければならないことがありますが、場合によったらそれが幼少期のこともあるのです。そしてその大きな選択や決断が人から理解されないこともあります。少年イエスの言葉に戸惑いながらも、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(2:51)心に納めるとはどういうことでしょう。
間もなく新年を迎えます。不安や困難を抱えたまま新年を迎えなければならない方もいるでしょう。しかし人生で出会う全てのことは、自分の心が引き寄せたものです。病気もその例外ではありません。全ては心の様相が現実にそのまま投影されます。否定的なことを考えると否定的な現実を引き寄せるのです。私たちの人生の中にはいかなる偶然も存在しません。人生の調和も混乱も、全て自分の思いが引き寄せたものであり、人間関係の全ても私たちがこれまで培ってきた心の姿勢の結果です。しかし私たちは自分の思いを変えることができます。それは自分の人生を変えることができるということです。このように自分が運命の設計者であることが分かれば、世に言う「悪いこと」は、実は「姿を変えた良いこと」に他ならないことが分かるでしょう。運命を決定するのはただ私たちの心にあり、自分の人生は自分で決めるのです。東洋思想ではこれを『立命』と言います。私たちも新年に向けて常に正しいポジティブな思いをしっかり心に納めましょう。
(寄稿 赤波江 豊 神父)