「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」(ルカ2:29)
シメオン老人は幼子イエスを抱き、救い主を見た以上安心してこの世を去ることができると、神を賛美しました。しかし同時にシメオンは「この子は反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」とマリアに予告し、この予告は33年後イエスの十字架の死となり現実のものとなってしまいました。
かつて中村覚(なかむらさとる)という死刑囚がいました。貧しい家庭に育ち、結核やカリエスを患うなど病弱で、学校の成績もいつも最下位で周囲からは低能児と軽蔑され続けていました。中学卒業後非行を重ねて少年院で過ごし、少年院を出た後も犯行を重ね24歳のとき、飢えに耐えかねて農家に押し入り、2000円の金を奪ったあげく主婦を殺害してしまいました。その後死刑が確定し、彼は1967年に33歳で人生の幕を閉じました。
その後島秋人(しまあきと)という歌人の「遺愛集」が1974年に出版されると、その感性の深さから専門家からは絶賛され、一般の人からも高く評価されましたが、その声が島秋人自身の耳に届くことはありませんでした。実は島秋人は死刑囚中村覚のペンネームだったのです。彼を優れた歌人として成長させたきっかけは、彼の中学時代の恩師夫妻の励ましの手紙でした。彼は最初獄中で絵を描くことで童心に帰りたいと思い、中学の担任で図画の吉田先生に手紙を書いたのでした。その手紙を書いた理由は、当時低能児と周囲から軽蔑されていた彼に吉田先生から「君は絵が下手だが構図自体は良い」と褒められたその一言からでした。吉田先生は彼の手紙に驚きながらも優しく返信し、その手紙に添えられていた先生の妻の3首の短歌に惹かれ、先生と文通を続けながら独房で短歌詠みに研鑽を積み、やがて新聞や雑誌で次々と入選を果たすようになりました。
「遺愛集」は彼の死後出版されましたが、それは彼自身の希望で、その「あとがき」には自らの犯罪に対する悔恨の念と同時に、かつて低能児と蔑まれた彼を暖かい人間愛でつつんでくれた吉田先生夫妻と、自らの人生に対する感謝の思いが暖かく綴られています。彼は処刑の前夜「この澄める こころ在るとは 識らず来て 刑死の明日に 迫る夜温し」と詠んで死を静かに受け入れます。この思いは「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」というシメオンの言葉と重なります。彼は獄中にあるとき、彼の短歌に感動した千葉という女性の養子となり、その彼女を通して彼自身キリストを信じて受洗し、プロテスタントの信者となりました。
この「あとがき」で彼自身花が好きであること、特に「菜の花」を愛していることを述べています。ヨーロッパの国に「花を愛する人は悪人にはなり得ない」という諺があります。島秋人も本来は心の純粋な少年であったのです。
(寄稿 赤波江 豊 神父)