3月30日 四旬節第4主日
黙想のヒント

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」 (ルカ15:18)

 自分の罪を認め、立ち返った放蕩息子を迎え入れる父親の姿は、回心した罪人を無条件で受け入れる神の愛を示す聖書で最も美しい話です。しかしこの話には兄の存在があり、この兄が話を難しくしています。しかし実は罪の問題は複雑であり、罪の問題を考えるには弟だけではなく、この兄の存在こそが必要なのです。弟は直ちに自分の罪を認めますが、兄は自分が正しい人間であると考え、放蕩で身を持ち崩した弟を、もはや死んだも同然の他人と考えます。そこに彼の罪があるのですが、彼にはその罪が理解できない。

 「罪とは何か」を、時代を超えて問いかける傑作小説にドストエフスキーの『罪と罰』があります。主人公のラスコーリニコフは大学法学部を学費滞納で中退し、屋根裏部屋に閉じこもっていました。彼は、自分は特別な存在であるという独善的思想を持っていました。つまり、人間には凡人と非凡人がいる。非凡人は道徳や法律を超越でき、必要なら人を殺してもかまわないと考え、自分を非凡人と考えていました。そこで社会で最も有害で「しらみ同然」と考えた高利貸しの老婆を殺害する計画を立て、その老婆が蓄えた金は社会で有益に使うべきだと考えたのです。しかし彼は殺人を実行した後、次々と湧き上がる恐怖と妄想に苦しみ精神面でも変調をきたし、3日間屋根裏部屋で昏睡し続けます。

 彼の理論では、非凡人は人を犠牲にしても良心は痛まないはずですが、現実の彼は自分の過去の罪意識で心身が悲鳴をあげています。これは頭の中では理想を描きながらも、実行に踏み出した途端、現実に直面して自分の無力さに愕然とする人間の姿を如実に描いています。そのような彼はソーニャと出会います。彼女は神への深い信仰と強い自己犠牲の精神を持っていましたが、一家は貧窮のどん底にあり、彼女は娼婦となることで一家を支えていました。

 彼女はラスコーリニコフに自らの罪を認めるよう強く迫りますが、二人の間には罪の認識について大きな隔たりがあります。ラスコーリニコフはソーニャが自分の行為を許してくれるものと思って罪を告白しますが、神への深い信仰心をもつソーニャは彼が自分の罪を認識して償うよう促し、自分も一緒に罪を背負い、彼を救おうと望んでいます。そんな彼女をラスコーリニコフは理解できず、彼女も泣きながら「せめてたった一度でも十字を切って、お祈りしてください」と叫ぶ彼女に形式上十字は切るものの、本心では自分の罪を認めていない。

 彼はついに自首してシベリアの刑務所に送られます。そこでも彼は自分の罪に耐えられず自首しただけだと考え続けていました。ある日彼は病気になって寝込み悪夢にうなされます。その悪夢とは人類が未知の病原菌に感染してしまうもので、それに感染すると誰もが「自分だけが絶対的に正しい信念を持つ」と信じ込み、やがてお互いが信頼できなって殺し合いとなり、社会も機能しなくなり、ついに飢饉が始まり人類が滅びるという夢でした。悪夢から覚めて全快した後、刑務所を訪れたソーニャと再会したラスコーリニコフは手を差し伸べた彼女の手を放さず、泣きながら彼女の膝を抱きしめます。そうして彼女はラスコーリニコフがついに甦ったことを悟ったのでした。

 彼が悪夢で見た「自分だけが絶対的に正しい信念を持つ」と信じ込ませる未知の病原菌に感染していたのは、自分は正しいと信じていた放蕩息子の兄であり、私たちもまたその病原菌に感染する危険性が大いにあるのです。

 屋根裏部屋で妄想にふけっていたラスコーリニコフは、スマホの画面に表示されるSNS空間に閉じこもって孤立する現代人の姿と重なって見えてしまいます。しかしSNSは間違ったことを気にするよう仕向ける巨大な装置なのです。大切なのは周囲の人たちとの生きた関りと対話であり、ラスコーリニコフもソーニャとの出会いを通して、徐々に本来の自分を取り戻していったのでした。

 知識はこの情報社会の中であらゆるところから瞬時に取り込むことができます。しかし人生を生きる正しい知恵は生身の人間に直接触れなければ得ることはできません。それは生き方として一人ひとりの人間の中に息づくものだからです。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

トップページ | 全ニュース