「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)
今日の福音書で、イエスとともに十字架につけられた二人の犯罪人のうち、生涯の最後にイエスに望みを託してこの言葉を告げ、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23:43)とイエスから救いを約束された犯罪人は、伝説上ディスマスと呼ばれています。一方「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(23:39)とイエスをののしった犯罪人は伝説上ゲスタスと呼ばれています。
ディスマスはイエスによって直接天国を約束された人、即ちイエスによって直接列聖されたので、教会の聖人名簿に名を連ねています。それではゲスタスはどうでしょうか。彼は最後にイエスをののしったので地獄に行ったのでしょうか。「ディスマスは一言で救われた。ゲスタスは一言で地獄へ行った」これでは、私たちは誰も安心して生きることはできません。ビクビクしながら臆病に生きるしかありません。私はこのディスマスとゲスタスは、実は同じ一人の人間が持つ、二つの側面を示していると思うのです。私たちも場合によったら、ゲスタスのように苦難に直面して神と自分の運命を呪い、また場合によったら、ディスマスのように思い直して神に赦しを願う、日々この繰り返しなのです。
実は、イエスの受難を語る四福音書では、それぞれ十字架上のイエスの最後の言葉が違います。マタイとマルコは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)という失望の言葉で終わり、ルカは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)という信頼の言葉で終わり、ヨハネは「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)という成就の言葉で終わっています。これらは、イエスの弟子たちが、それぞれ自分たちの信仰の目で十字架上のイエスを描いたのであって、どれが正しい、どれが間違っているという問題ではないのです。
人生山あり谷ありで、時に「神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と人生に失望したり、また思い直して「わたしの霊を御手にゆだねます」と神の導きに信頼したりの繰り返しですが、やはり最後は、人生の悲しみも喜びも全てをよしとして受け入れ、「成し遂げられた」と叫びたいものです。教育学者で哲学者森信三の言葉です。
「人間というものは、どうしてもどこかで阻まれないと、その人の真の力量は出ないもののようです。これは水力発電の理と同じです」「予定通りの人生というものは、とかく平板単調なものでありまして、むしろ予定の破れて行く悲しみに逢いながら、しかもそこに新たなる、より深い償いを見出してゆく人生こそ、真に奥行きがあり、深みのある人生ということができましょう。実際わたくしたちは、自己にとって最大の期待の破れたような場合、そうした悲しみのどん底において、深い新たなる光明に接するのであります」「満身総身に縦横無尽に受けた人生の切り創(きず)を通してつかまれた真理でなければ、真の力とはなり難い」イエスの受難と復活を想起させるような言葉です。
(寄稿 赤波江 豊 神父)