4月20日 復活の主日
黙想のヒント

「イエスは必ず死者の中から復活することになっている」(ヨハネ20:9)

 イエスと共に宣教活動をしていた時の弟子たちの信仰は、不完全なものでした。その弟子たちの不完全な信仰は、イエスの十字架と共に葬り去られたのです。弟子たちはイエスを信じていませんでした。しかしイエスが弟子たちを信じていました。弟子たちはイエスを裏切りました。しかし裏切られたはずのイエスの方が、弟子たちを愛していました。あのイエスの受難と死の後、弟子たちはユダヤ人を恐れて隠れていました。誰もイエスを探しませんでした。しかしイエスが弟子たちに会いに来てくれたのです。その時の第一声が「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)という言葉でした。さらにイエスの素晴らしさは、自分を裏切った弟子たちを決して咎めも、罰することもしなかったことです。もしこの時、イエスが自分を裏切った弟子たちを厳しく罰していたら、教会は誕生しなかったでしょう。弟子たちがイエスの真の姿、言葉と行いの真実さを知ったのは、復活と昇天を通して目に見えない姿となり、そして聖霊降臨を通してでした。

 実際、人間もその真価が分かるのは、その人が目に見えない姿となった後なのです。私たちは死んだ後、余韻として何を残すことができるでしょうか。それは、その人の真実の姿、即ち人柄のみです。私たちはまだ死を経験していません。ですから復活の体がどういうものであるか、まだよく分かりません。しかし、やたらと死んだ後の状態を想像しながら生きることよくありません。大事なのは私たちが死んだ後、後に続く人たちにどのような記憶を残すかということです。記憶は人生の道標(みちしるべ)です。私たちは間違った道標ではなく、正しい道標を後に続く人に残さなければならないのです。

 「われわれは、自己の生に徹することによって生を超えると共に、そこにおのずから死をも超える道が開かれてくるのであります。かくして人生を真に徹して生きる人には、生死はついに一貫となり、さらには一如ともなるわけであります。すなわちその時、生死はついに別物ではなくなるのであります。すなわちそこには、自分の使命に生き切ったということに対する無限の喜びが、死に対する恐怖を感じさせなくなるわけです。かくして人間は、真に生き切った時、そこには何ら心残りはないはずです。それはちょうど、終日働き通して予定を完了した人は、快く疲れて、何ら思い残すことなく眠りにつくにも似た心境かとも思うのです。そしてこれは、自己の全生命を挙げて生き抜いた人にして、初めて分かる消息であって、単に頭の中で、かれこれと考えた程度で分かることではないでしょう。すなわち生涯を一道に徹して生きた人にのみ恵まれる永遠の安らぎであり、久遠の希望と言うべきでありましょう」(森信三『修身教授録』)

 復活信仰の核心は、やたらと死んだ後のことを想像しながら生きるのではなく、人生全てに意味があることを信じ、今この時を誠実に生きることに他ならないのです。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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