4月27日 復活節第2主日
黙想のヒント

「あの方の手に釘の後を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」(ヨハネ20:25)

 「疑心暗鬼を生ず」という中国の故事があります。心に疑いの念を抱いていると、暗がりの中で、何でもないものが鬼の形に見えたりする。すなわち先入観や、疑う心があるとものごとは正しく判断できず、間違いも起こしやすいという意味です。

 中国の古典、『列子』の「説符篇」の中の話です。ある男が大事にしていた斧を失くしてしまった。どこを探しても見つからない。そこで誰かに盗まれたと思い始めた。そう考えたら、どうも隣の息子が怪しい。自分と会ったときの態度が変だ。何かこそこそして、顔つきや言葉遣いも不自然だ。斧を盗んだのは隣の息子に違いないと、その男は思い込んでしまった。しかし、もしかしたら斧は自分が川に置き忘れたのではないかとふと思い、行ってみたら案の定、斧は川にあった。人を疑って申し訳ないと思って、隣の息子を見ると、態度も言葉も普段と少しも変わりはなかったという内容です。

 復活したイエスが弟子たちに現れたとき、トマスはその場にいませんでした。それで、「私たちは主を見た」(20:25)という弟子たちに対してトマスは、どうしてよりによって自分がいないときに主は現れたのか。自分はのけ者にされたのかと疑ったことでしょう。そう疑い出したら、それこそ「疑心暗鬼」です。心の暗がりの中で「鬼のような考え」が浮かび上がりました。「この指を釘跡に入れ、この手をわき腹に入れてみなければ、絶対信じるものか」と。

 そのような疑心暗鬼の状態にあったトマスのために、イエスはわざわざ現れてくれました。そして、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20:27)というイエスの言葉に妄想から覚めたトマスは、「私の主、私の神よ」(20:28)と叫んで自分の不信仰を詫びます。私たちも日常生活の中で、自分勝手な想像、場合によったら妄想から人を疑って、大切な人間関係に亀裂をもたらしてしまうことがあります。そのような疑心暗鬼にならないためには、心によくない疑いを感じたら、静寂さを取り戻して、自分の今の精神状態は本当に正しいのかと自問することです。自分は決して間違っていないと確信するときほど、実は、大きな危険性が横たわっているのです。

 確かに、トマスはイエスを疑いました。それでも彼が救われたのは、仲間の弟子たちから離れなかったからです。もし彼が、自分はのけ者にされたと思い込み、仲間の弟子たちから離れ去ったのなら、彼はイエスと出会わなかったかも知れません。私たちも、弱さから教会や神を疑うこともあります。それでも大事なのは教会の仲間から離れないということです。仲間とつながってさえいれば、疑心暗鬼の信仰状態の中でも、誰かが支え、助けとなって、再びイエスとの出会いの道が開かれるでしょう。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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