「主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ヨハネ21:15)
19世紀のポーランド人ノーベル賞作家ヘンリク・シェンキエヴィッチの小説に『クオ・ヴァディス』があります。これは1896年に出版され、1951年ハリウッドで映画化されました。そのクライマックスは、ペトロはローマの教会の指導者でしたが、その頃ローマでは迫害の嵐が激しさを増し、多くの信徒がローマを去りました。ペトロはローマに残るつもりでしたが、周囲の信徒に懇願され、夜中にローマを去ります。明け方頃、ローマの郊外アッピア街道を歩いていると、夜明けの光の中に突然キリストが現れます。ペトロは思わず膝をついて、「クオ・ヴァディス・ドミネ」(ラテン語で「主よ、どこへ行かれるのですか」の意味)と尋ねます。それに対してキリストは「あなたが私の羊たちを見捨てるのなら、私がもう一度ローマで十字架を受けよう」と答えます。ペトロはしばらく気を失っていましたが、我に返ってローマに引き返し、その後殉教します。ペトロは初心に立ち戻ります。その初心とは「主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」という今日の福音の言葉に表されています。ちなみに、この小説は新約聖書外典(正式な新約聖書から外された教会の伝承)『ペトロの行伝』の中に似た話があり、シェンキエヴィッチはこれを参考にしたものと思われます。
ペトロは、福音書の中で、他の弟子たちに比べて最も多く登場し、多くを語り、そして人間味あふれる姿を示しています。そして、度々過ちに陥り、人間的な弱さやもろさを露呈しています。彼は、生涯多くの敵と戦わなければなりませんでした。しかし、一番の敵は彼自身だったことでしょう。ペトロだけではなく、私たちも自分自身を知らないため、度々多くの過ちに陥ります。古代ギリシャの哲学者タレスは、「この世で最も難しいことは、自分自身を知ることだ」と言っています。自分との戦いの連続だったペトロの生涯は、また試行錯誤の連続だったことでしょう。ペトロだけではなく、私たちにとっても試行錯誤は、成長における必須のプロセスなのです。
私たちがよく使う「初心忘るべからず」という言葉は、能の大成者世阿弥(ぜあみ)の言葉です。若い時の未熟な芸や技術、苦い思い出、様々な失敗を忘れるな、という意味から、ものごとを学び始めたときの、謙虚さ、くもりのない純粋さ、緊張感を忘れてはならないという教訓として使われています。人間誰でも迷います。誰でも、ある目標に達するまでに、何度も迷い、方向を見失い、多くの失敗を重ねます。人生は登山のようなものです。人生と同じく、山はよく状況が変化します。熟練した登山家たちは、よく知っている山であれ、未知の山であれ、状況に変化があって、進むべきか、待つべきか判断に迷うときは、躊躇なく出発点に戻れと言います。というのは、登山には遭難の危険性が常にあるからです。「初心忘るべからず」は、登山だけではなく、常に遭難の危険性がある人生に、そして信仰にこそ当てはまります。
(寄稿 赤波江 豊 神父)