「聖霊が、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26)
人生は木の年輪のようです。木の芯が誕生の時で、次に幼年期、少年少女期、青年期、壮年期、そして老年期とその輪が広がっていくに従って経験や知識も増えます。しかしある日突然、幼かった時の記憶が鮮やかに甦る時があります。そして同時に今は亡き人たちのことも甦ります。そのようなとき、亡くなった人たちはもはや墓の中ではなく、生きた人間の心の中に復活していることが分かります。木の年輪を見ていると、時は過ぎ去るのではなく、心の内に、体の内に積もりゆくものだと実感します。
大きな砂時計のように、無数の記憶の砂が音もなく心の内に、体の内に積もっていきます。人は無数の記憶の中で生きており、その記憶によって人格が形成されます。記憶は普段眠っていますが、例えば大きな困難に直面したとき誰かの言葉を思い出して突然目覚め、それによって勇気を得て困難を乗り越えることがあります。「聖霊が、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」この言葉はイエスを通して、亡くなった人たちが私たちに語りかけているのです。しかし、記憶というものはしばしば劣化したり、書き換えられたりすることもあるのです。何かを思い出して、いつまでも怒ったり、恨んだり、悲しみ続けたりする場合、それはどこかで記憶を書き換えているのです。そのような記憶は、聖霊ではなく、むしろ悪霊が思い起こさせ私たちを呪縛しているのです。
私たちは人と接するとき、無意識の内に相手に何かを期待しているところがあります。そして相手がその期待に応じてくれないとき、そこには失望や怒りが生まれます。それも記憶となって積もり続けます。仏教では心の乱れは執着のせいだと言われます。人に大きな期待をかけ、もしその人が期待に応えてくれないとき裏切られたと感じます。この場合期待しているのは相手のためではなく、自分への執着なのです。だから執着する気持ちを無くして心に平安を保つのが仏教の教えです。反対に小さな行為でも、人に見てもらいたいとか、気に入られたいという期待のない純粋さには絶大な強さがあります。そこには人への期待というものがないので、当然失望も怒りもないのです。
確かに心は人間性の全てということができます。しかし心は人間を生かす「道具」ととらえてみることも大事かと思われます。道具に「使われている」から、心配や怒りというマイナス感情に振り回されるのです。しかし道具は「使うもの」だと考えれば、私たちの意志ひとつで心配や怒りをプラスに方向転換できます。
時々自分がマイナス感情に支配されていることに気づいたら、しばらく目を閉じて、ゆっくり深呼吸をしましょう。そして、今まで辛いこともあったが、幸せなことも多かった。自分の人生まんざら悪くはない、むしろ幸せだ。そう思いながら幸せな記憶を心のスクリーンに映し出してください。そこに映し出された映像が、イエスの笑顔とともに私たちにまた生きる力を与えてくれるでしょう。
(寄稿 赤波江 豊 神父)