「必要なことはただ一つだけである。マリアはよい方を選んだ」(ルカ10:42)
今日の福音は一般の家庭でも見られる日常生活の一コマです。特に二人姉妹の方ならこの話に親しみを覚えることでしょう。イエスをもてなそうと、せわしく立ち働くマルタとイエスの足元で話に聞き入るマリアは非常に対照的で、内容からしてマルタが姉でマリアが妹と思われます。しかし仕事を手伝ってくれないマリアに対しマルタはいささか不満で、イエスに「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようおっしゃってください」マルタのイライラした表情が手に取るように分かります。
マルタの不満はこの時だけではなく、日頃からのものであったと思われます。この姉妹にはラザロという兄弟がいますが、病弱であったと思われ一度死にますが、後にイエスによって命を取り戻してもらいます。(ヨハネ11:38~44参照)マルタはこのマリアとラザロの面倒を見なければならず、本当は心優しい女性なのですが、その責任感の強さ故にイライラすることも多かったと思われます。私にはこのマルタが家事に専念しながら、何か一人つぶやいている姿が目に浮かぶのです。それは私たちの日常の姿でもあります。
人は口に出さなくても、心の中で自分に言い聞かせている言葉があります。好調なときや思い通りにいかないとき無意識につぶやく「ひとり言」です。このひとり言は自分に対する一種の自己暗示で、自分をその気にさせる力があります。しかし多くの人は、この大切なひとり言をマイナスな暗示に使ってしまうことが多いのではないでしょうか。ものごとが自分の思うようにならないとき、「ああ、いやだ」「むかつく」「腹立つ」などです。反対に「まあ、いいか」「これも勉強」「今度はできるよ」など、自分を励ますひとり言を普段から使っていると、いざというとき強い人間になれます。
マルタが芯の強い女性であったことを示す福音の箇所があります。ラザロが一度死んだとき彼女は毅然として立派な信仰告白をします。(ヨハネ11:17~27参照)この毅然とした彼女の態度は、普段からプラス言葉のつぶやきに裏打ちされたもので、教会ではこれを祈りと言います。私たちは普段のマイナスのつぶやきの方向を変え、プラスのつぶやきに少し手を加えるだけで立派な祈りになり、深く自分を見つめ直すことができます。
しかし今日の福音で納得のいかない方も多いのではないでしょうか。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」それでは、マルタがしたことは良くなかったのか。そうではなく、マルタの奉仕があったからこそ、マリアはイエスの話に聞き入ることができ、マリアの姿は人の話に耳を傾けることも大切な奉仕であることを示しています。一方が良くて、他方が良くないという事の優劣の問題ではなく、どちらも必要なのです。人間が二つの肺で呼吸するように、私たちにはマルタの奉仕とマリアの聞く姿勢が必要なのです。
(寄稿 赤波江 豊 神父)