9月28日年間第26主日
黙想のヒント(第271話)

「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(ルカ16:25)

 中国古典『枕中記』に「邯鄲(かんたん)の夢」という話があります。昔趙の都、邯鄲の宿で呂翁という仙人が休んでいました。そこへ盧生という貧しい若者が通りかかって、呂翁に自分の貧しい境遇を嘆きました。宿では主人が粟を蒸しています。やがて眠くなった盧生は、呂翁から栄耀栄華がかなうという陶器でできた枕を借りて寝ました。その枕は両端に穴があり、彼が眠っている間にその穴がどんどん大きくなり、彼が入ってみるとそこには立派な屋敷があり、彼はそこに住むことになりました。やがて彼は名家の娘と結婚し、官吏の登用試験にも合格して出世し、ついに宰相の地位にまで上りつめました。

 ところがある日、突然無実の罪で捕らえられ、国家に反逆したとして死罪を言い渡されました。盧生は後悔し、「出身地の田舎にはわずかだが田畑があり、欲を出さずに農業を営んでいれば、こんなことにはならなかった。どうして出世したいなどと考えたのだろう。邯鄲への道を貧しい身なりで歩いていた自分がなつかしい」と嘆いて命を絶とうとしますが、妻に押しとどめられてしまいます。やがて反逆の罪で捕らえられた仲間は皆処刑されますが、盧生だけは皇帝のはからいで遠い地へと流刑されます。ところが数年後、無実であることが分かり、彼は国に帰り再び皇帝の信任を得て高い地位に就きます。

 五人の子どもたちもそれぞれ出世して名家と縁組をして多くの孫に恵まれ、盧生は再び幸せを取り戻します。しかし健康を害して病の床に臥すようになります。彼を慕って見舞客が絶えず、皇帝からは名医や良薬が贈られます。しかし年齢には勝てず多くの人に見守られながら、ついに盧生は大往生を遂げます。

 盧生は大きなあくびをひとつして目覚めると、まだ邯鄲の宿屋にいるのです。呂翁も側にいて、あの粟さえまだ蒸しあがっていない。全ては元のままでした。長いと思っていた50年の一生は、ほんの束の間の出来事に過ぎなかったのでした。盧生は全てを体験しました。もう欲を出さずに田舎でつつましく暮らそうと決心して、彼は宿を後にしました。

 今日の金持ちとラザロのたとえ話を、この「邯鄲の夢」を参考に私のイマジネーションを使って次のように結びたいと思います。「彼は突然目覚める。そしてあの地獄が夢であったことに深く安堵する。全ては元のままだった。長いと思っていた自分の一生は、束の間の出来事にすぎなかった。悪夢で流した油汗を拭きながら彼は悟った。『もう金持ちになって一生遊んで暮らそうという愚かな思いは捨てよう。そしてラザロと一緒に一生をつつましく暮らしていこう』そうして彼は元の貧しい生活に戻ったのでした」

 「かくも短き人生に、争い、謝り、傷心し、他人を責める暇はない。あるのは愛するための時間だけだ。たとえ、それが一瞬にすぎなくても」(マーク・トウェイン)

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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