「もしあなたがたに、からし種一粒ほどの信仰があれば」(ルカ17:6)
からし種はほとんど気づかないくらい小さな種で、イエスはその生命力の偉大さを神の国にも例えています (ルカ13:18~19など)。私たちにとって、偉大な生命力を持つこのからし種は、日常生活の平凡さに例えることができるでしょう。一見して平凡に見える日常生活にこそ偉大な力が隠されています。平凡なことを完成させるのは非凡な業なのです。
ベルギーの作家モーリス・メーテルリンクの童話に「青い鳥」があります。青い鳥は、日本語では幸せと理解されていますが、メーテルリンクは青い鳥を幸せとは特定していません。青い鳥とは愛、喜び、希望、真実、平和そして今日のテーマの信仰など、この童話を読む人それぞれが、心に抱いている一番大切なものだと感じ取ればいいのです。
貧しい家庭の兄のチルチルと妹のミチルは、クリスマスというのにクリスマスツリーすらなく、お向かいの裕福な家庭のクリスマスを羨ましそうに見ていました。そこへ見知らぬおばあさんが来て、孫が病気で幸せを呼ぶ青い鳥を探しているが、ここに青い鳥はいませんか尋ねます。チルチルが家には白い鳥しかいないよと答えると、では青い鳥を探しておくれと言って、ダイヤモンドのついた帽子をかぶせます。彼がそのダイヤモンドを回すとたくさんの光の妖精が現れ、やがて二人の青い鳥探しの冒険が始まります。
二人は妖精に導かれ、思い出の国、夜の国、森の国を冒険し青い鳥を見つけますが、すぐ色が変わったり、死んでしまったりして青い鳥は見つかりません。ついに未来の国で青い鳥を見つけますが、「時の番人」に見つかり二人は追い出されます。妖精は青い鳥は見つかったのでこれで旅は終わりだと言います。ところが青い鳥は赤くなってしまっている。光の妖精は、きっと本当の青い鳥は違うところにいるよと言って去ってしまいます。
やがて「二人ともいつまで寝ているの。今日はクリスマスよ」という母親の声で目を覚まします。その時あのおばあさんが現れ、病気の孫が君の鳥を見たいと言っているから貸しておくれと言うと、何とあの白い鳥が青い鳥に変わっていました。やがて青い鳥のおかげで病気は治ったと言って子どもと一緒に青い鳥を返しに来ました。チルチルとミチルはその子が光の妖精にそっくりなのに驚きます。しかしその子が鳥籠をチルチルに返そうとしたとき、扉が開いて青い鳥は空に飛んで行ってしまいました。残念がるその子にチルチルは「あれが僕たち探している青い鳥なのだ。僕たちは、ずいぶん遠くまで探しに行ったけど、本当はいつもここにいたのだ」という言葉でこの童話は幕を閉じます。
「あなたにゆだねられている良いもの」(Ⅱテモテ1:14)である愛、喜び、希望、真実、平和、信仰などは私たちのすぐ足元、日常生活の平凡さの中にあります。それは必死で探さなければならないものではなく、日常生活の中で「しなければならないことをした」(ルカ17:10)とき、即ち普段の仕事や奉仕を愛と感謝を込めてしたとき、すぐに見つけることができることを「青い鳥」は聖書と共に伝えています。
(寄稿 赤波江 豊 神父)