「私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」(Ⅱテモテ4:7~8)
パウロの信仰表現の特徴は、「スポーツ」「競技」「戦い」などで、今日の表現はその典型です。彼はオリンピアの祭典を例に挙げながら、最も古いスポーツであるレスリングやマラソンなどの競技を信仰の戦いに、そしてその勝利者に与えられる栄冠を永遠の命に例えています。そして競技の勝敗を決める審判のように、「正しい審判者である主」(4:8)が永遠の命という義の栄冠を与えてくれることを、パウロは死を前にして確信しています。
しかし、これはパウロだからこそ言えることであって、とてもじゃないが私たちにはできない、と多くの人は思っているかも知れません。しかし彼は「しかし、私だけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます」(4:8)と断言しています。それでは、「主が来られるのをひたすら待ち望む人」とはどのような人のことでしょうか。
「人の生き様は人の死に様、人の死に様は人の生き様」と言われるように、人は生きたように死んでいきます。不平不満で生きてきた人は、不平不満で亡くなりますし、感謝と喜びで生きてきた人は、感謝と喜びで亡くなります。死は誰もが迎えなければならない宿命という以上に、死は大切な儀式であり、この死という人生の千秋楽をいかに美しく迎えるかが、その後の残された家族に大きな影響を与えるのです。
2500人近くを看取ったホスピスのある医師は、「よき人生と言っても、そこにはかなり個人の主観が入り一概には言えませんが、やはり前向きな態度、そして周りに感謝できること、私はこの二つに集約されるような気がしてならないのです」と述べています。人生誰にでも山と谷、順境と逆境、炎の時と灰の時がありますが、前向きに生きるとはどのような状況でも常にプラス面だけを見ることです。そして感謝を端的に表す「ありがとう」の一言は、残された家族を救う何よりの遺産です。この「ありがとう」という単純な言葉の価値を、教会の司牧の現場や医療機関はもっと顧みる必要があります。そのような最期の「ありがとう」は、残された家族に悲しみの中にもやさしい余韻と思い出を残し、死んでいく者の命が、残された者の中に生き続けていることを感じさせてくれるのです。
「前向きさと感謝、この二つで人生を全うする人を私は人生の勝利者と呼んでいます」と上述の医師は述べています。パウロが言う「主が来られるのをひたすら待ち望む人」とは、この医師が言うように前向きさと感謝で人生を全うする人で、これにより義の栄冠は誰にでも可能なのです。
「初めに終わりのことを考えよ」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)人生はマラソンのようなものです。そして、そのラストスパートは結構若いうちから始まっています。平均寿命何歳と言っても、死は定刻通りにやって来るのではないのです。
(寄稿 赤波江 豊 神父)