「目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)
待降節が始まりました。この大切な時期に、キリストの降誕を準備するとともに、また私たちにも命が与えられた意味について考えましょう。私たちはこの世に生まれる前は、人として生まれることを望んでも決意したわけでもありません。また努力や功徳を積んだわけでもないのに、自分を越えた大いなる力に促されて生まれてきたのです。「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」(ローマの教会への手紙13:11)この「時」とは、数多くの感謝の中でも一番大切な感謝である「自分に無償で命が与えられたこと」に対する感謝の時です。もしそのことに感謝の念が足りなかったのなら、今日から生まれ変わって「自分の命に手を合わせましょう」
人は肉体的には一度しか誕生することができませんが、精神的には何度でも生まれ変わることができます。むしろ一日一日が新たな誕生でなければならないのです。そうやって、自分自身という、生涯に一回限りの彫刻を作り続けるのです。彫刻は手で作られます。手には力が宿るとか、手からエネルギーが出るとか言われます。司祭も手で祝福します。私たちは自分の手をよく見ます。石川啄木は「はたらけど はたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」と詠んでいます。貧しかった彼は自分の手を見ながら、自分自身と向き合いました。私たちも自分の手をよく見つめてみましょう。
今年はあちこちで柿が豊作と聞いています。柿にはそのままでは食べられない渋柿があります。しかし渋柿は長い間寒風にさらされながら、その渋が不思議と甘味に転じます。同じように、私たちも渋のように感じていた自分の至らなさや欠点も、人生の寒風にさらされながら、やがてそれが円熟味を増すのです。辛いという字に横棒を入れれば幸せという字になり、また幸せという字から横棒を取れば辛いという字になります。結局、幸不幸はわずかな心のとらえ方の違いなのです。そうやって自分の手を見ながら、辛いこともあったけど、幸せなこともあった。人生プラス・マイナスこれでよし、そう思いながらいつか生涯を終えるとき、自分自身の手をしっかり見つめて感謝しながら、二つの手を合わせて永遠の旅路に出発したいものです。
始まったものはいつか終わる。始まった命もいつか終わりを迎える。人は誕生の時、同時に死の宣告を受けます。ですから人生の終わりを思い描くことから、人生について考えなければなりません。終わりを思い描くということは、目的地を明確にしてから第一歩を踏み出すということです。目的地が分かれば、今自分がどこにいるのかが分かります。
「我々人間は、死というものの意味を考え、死に対して自分の心の腰が決まってきた時、そこに初めてその人の真の人生は出発する。逆に言えば、未だ死について何らの考えもなく、死に対して腰の決まらないうちは、その人生は、未だ真実とは言えない」(教育学者・哲学者森信三)だから「目を覚ましていなさい」
(寄稿 赤波江 豊 神父)