12月7日 待降節第2主日
黙想のヒント(第281話)

「エッサイの株から一つの芽が萌えいで」(イザヤ11:1)

 エッサイはダビデ王の父親で、イスラエルはダビデ、ソロモン王の時代に絶頂期を迎えます。しかしソロモンの死後イスラエルは国が分裂し、その後他国の支配下に置かれ苦難の時代が続きます。株とは木の切り株のことで、木は切り倒されて切り株だけになったら死んだかのように見えますが、根が生きていれば株から脇芽が出て再び成長します。エッサイの株とは一度断絶したダビデ王朝を意味し、断絶したかのように見えても、「エッサイの根」(11:10)は生きており、そこから再び救い主が生まれることを意味しています。

 何度か山で見た満天の星空や青く澄んだ海の美しさ、黒い雲の間から差す太陽の光の神々しさに圧倒されたことがあります。この世は美しいものに満ち溢れています。しかしこの世界が最も必要とするのは、それを見て美しいと感じる人間なのです。「人間は葦にすぎない。自然の中で最も弱い者である。しかし人間は考える葦である」(ブレーズ・パスカル)広大な自然に比べれば、人間とは一本の葦のように無力な存在です。しかし人間は思考することで自然を包み込むことができます。人間の尊厳と偉大さはそこにあります。

 人間は何かに触れて感動する度に、自分自身の内に天地創造を再現しているのです。「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった」(創世記1:3)同じように、自分に対して「光あれ」「希望あれ」「勇気あれ」と言えば、光も希望も勇気も生まれるのです。神の創造の霊の中に生きる私たちには、「エッサイの根」が脈々と生きており、人生が切り株のような状態でも常に創造、再生、進化することができるのです。

 魚は水がなければ生きることができません。しかし魚は自分が水の中に生きていることを意識していないでしょう。それと同様に人間は意識する、しないにかかわらず、神の創造の霊の中に包まれているからこそ生きているのです。ですから人間は本来不完全より完全を、破壊より完成を、死より命を望むのです。磁石に鉄をしばらくつけておけば、その鉄にも磁気が伝わるように、善良でポジティブな人と接すれば、その心の波長も人に伝わり善良でポジティブに感化します。しかし、その反対のことも言えます。

 人生、勉強でも仕事でも思い通りにならないのが普通ですが、そのときどのような言葉を使うかが成長の鍵を握っています。マイナスな言葉、人を傷つける言葉は悪魔に加担し、自分の運命が破壊されていることを宣言しているのと同じです。神の創造の霊の中に生きる私たちは常に「忍耐と慰めの源である神」(ローマ15:5)から出た善良な言葉、美しい言葉、人を生かす言葉を使いましょう。私たちが日常生活で使う言葉の一つ一つの全てが、人生に直接影響を与える力となっているのです。だから人間は常に正しい言葉をもって生きるよう召されているのです。それは「自分を生かす宗教」でもあります。宗教は自分以外の力に救われ生かされるのなら、正しい言葉こそ自分を救いへと導いてくれる神的力だからです。

 「言(ことば)は神であった」(ヨハネ1:1)

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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