12月14日 待降節第3主日
黙想のヒント(第282話)

「荒れ野よ、荒れ地よ、喜びおどれ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ」(イザヤ35:1)

 毎年待降節第3主日は「喜びの主日」と言われ、主の降誕が近づく喜びをこの日の典礼で祝います。馬小屋の飾りつけを見ると、救い主の誕生を喜んでいるのは、マリアとヨセフ、羊飼いたち、3人の博士たちだけではなく、飼い葉桶の上で歓声を上げる天使たちでもあるのです。伝統的にヨーロッパの芸術家たちは天使を若い青年として、むしろ子どもとして描いてきました。天使は子どものようにいつもほほえみ、遊び好きで、自由であり、生きることを楽しんでいます。天使には涙も、苦悩も、怒りも、悲しみもありません。天使は死というものを感じさせず、天使からは温もりだけが伝わってきます。この天使に芸術家たちは、そして教会は永遠の若さと喜びを託してきました。

 喜びは、温かさとも言い換えられます。あの人は心が温かいという言い方があります。その人といると温もりが伝わって、自分自身も何か心が温められる人のことです。反対にあの人は冷たいという言い方もあります。そのような人といると自分自身も心が凍てつくようです。同様に、いつも人が祈っている聖堂には魂がこもって、ある種の温もりを感じます。反対に普段誰も祈っていない聖堂にはある種の寂しい冷気が漂っています。

 教会の聖人たちにとっては厳格さや厳しさではなく、明るさ、喜び、ユーモアが大切な霊性であると考えられてきました。明るさとは、生まれつきの性格のことではありません。それは大きな信頼、ありのままの自分が受け入れられている、最後には神が全てをよくはからってくれるという確信から生まれるのです。これが育つには忍耐が必要です。

 ヤコブは「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」(ヤコブ5:7)と諭しています。勉強でも仕事でも宣教でも、すぐ結果が見たいというのが人間の本心です。しかしすぐ結果が出るものは、しぼむのもまた早いのです。植物が成長しているかと、毎日根を抜いて確かめていては何も育ちません。それでは何を待つのか、それは自分の中で何かがゆっくりと熟成、成長していることを待つのです。その何かとは、教会が大切にしてきた明るさ、喜び、温もり、そしてユーモアなのです。

 喜びと温もりは笑顔をもたらします。人は幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せになるのです。反対に悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのです。「笑う門には福来る」という故事が日本にあります。いつも笑いの絶えない家庭には、いつか必ず幸福がやってくるという意味です。即ち、笑いの力によって魔が払われ人は幸せになれるという考え方です。ですから日本人は辛い時ほど笑って、早くこの困難から抜け出そうという「笑顔で辛さ乗り越える」という精神性がありました。また日本人は昔から終わるとか、やめるという持続発展しない言葉ではなく、「お開き」という言葉を使って、未来に向かって開かれることを尊びました。ですから今日の黙想のヒントも、主の降誕を待ち望みながらこれでお開きにします。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

今日の福音朗読

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