12月21日 待降節第4主日
黙想のヒント(第283話)

「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(マタイ1:21)

 福音書の中でイエスの誕生物語はルカとマタイだけが伝えています。待降節中、教会や学校、幼稚園では聖劇がよく行われますが、そのシナリオのほとんどはルカ福音書における天使ガブリエルからマリアへの告知とイエスの誕生物語で、マタイ福音書における主の天使のヨセフへの告知物語はあまり採用されません。

 福音書におけるマリアとヨセフの姿は非常に対照的です。まず、マリアは福音書の中でいくつか語っています。(ルカ1:38,47~55,2:48,ヨハネ2:3,5参照)しかし、ヨセフは福音書の中で一言も語っていないのです。しかも主の天使によるヨセフへの告知はすべて夢の中です。(マタイ1:20,2:13,19参照)マリアはイエスの最初の奇跡が行われたカナの婚宴から十字架上の死、聖霊降臨に立ち会っていますから、イエスの多くの奇跡にふれたことは用意に推察できます。しかしヨセフはカナの婚宴にはその姿がなかった(ヨハネ2:1)ことから、もうその時には亡くなっていたでしょう。またイエスはヨセフが亡くなって、扶養の義務から解放された後宣教活動に出たものと思われます。ですから、ヨセフはイエスの奇跡を一度も見ていないのです。さらに、聖書はマリアをイエスの母と呼びますが、教会はヨセフをイエスの父と呼ぶことはできないのです。正しい意味でイエスの父は、天の御父ただ一人で、ヨセフは単に養父としての役割を果たしたに過ぎないのです。

 1年の典礼の中でマリアの祝祭日は多くあります。まず1月1日の神の母聖マリアを始めとする4回の祭日、3回の祝日、6回の記念日、7回の任意の記念日。これに対してヨセフは3月19日の祭日と5月1日の任意の記念日である勤労者ヨセフ、この2回だけです。皆さんどう思われますか。あまりにも少なすぎやしませんか。さらに世界中には、ルルドやファチマを始めとする聖母出現の話が多くありますが、ヨセフに関しては皆無です。

 しかし、ヨセフの偉大さに目をとめましょう。上述のようにヨセフは福音書の中で何も語りませんが、彼は「正しい人」(マタイ1:19)であり、「主の天使が命じたとおり」(同1:24)にしたのです。この主から命じられたとおりにしたという、信仰による従順が彼の生涯の出発点でした。このヨセフの信仰がマリアの信仰と出会い、マリアを支え続けたのです。マリアが信仰によって救い主の母となったように、ヨセフも信仰によって救い主の養父となりました。

 ヨセフの最大の働きは、幼子イエスを生命の危機から守ったことです。かつてイスラエルの民が、エジプトの奴隷状態から逃れるために通った同じ道を通って、ヨセフはマリアと幼子を守りながらエジプトへ逃れました。マリアの子イエスは、同時にヨセフの子でもあります。肉によるつながりはなくても、ヨセフは子に父としての権威を示す必要がありました。それは主の天使が命じたとおり「その子をイエスと名付けた」(同1:25)ことによって実現されました。ヨハネ福音書もイエスを「ナザレの人、ヨセフの子イエス」(ヨハネ1:45)と明記しています。

 このイエスがその後「両親に仕えてお暮しになった」(ルカ2:51)ことは、イエスがヨセフの大工としての仕事を手伝っていたことを意味します。それは「仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マルコ10:45)救い主が最初にそのことを証しする場となりました。このナザレの沈黙に包まれたヨセフの姿の中に、深い霊的生活の原点を見出すことができます。沈黙の内にも、ヨセフはイエスと同じ家に住み毎日交わっていました。「沈黙の内に毎日イエスと交わる」これが私たちの霊的生活の原点であり頂点で、私たちがヨセフから大いに学ぶところです。

      (寄稿 赤波江 豊 神父)

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